和讃にきく 第12

第12回・測量できない世界

意味のない労働ほど人間を消耗させるものはありません。だから意味を求めるのですが…わかりやすいところで手を打っていませんか?

今回は、浄土和讃の11です。

 佛光測量なきゆへに(ぶっこう しきりょう  なきゆえに

   難思光佛となづけたり(なんしこうぶつと なづけたり

   諸佛は往生嘆じつつ(しょぶつはおうじょう たんじつつ)

   彌陀の功徳を稱ぜしむ(みだのくどくを しょうぜしむ)

 念仏とは文字どおり、「を念ずる」わけですから、声に出さず、心の中で念ずるのもよいかもしれませんね。ただ、その心が問題です。これが残念なことに、ひとときもじっとしてくれません。僅かな刺激で揺れ動きます。そうでしょう?どれほど心を静めようと努めても、心ほど自分の思いどおりにならないものはありませんね。

 なので、称名念仏といいまして、心の状態はどうであったとしても、まずもって手を合わせ口に称えることで仏を念じていますよ、という姿を表現するしかないのです。

 すると今度は「そんな行為に意味があるのか」と思われるでしょうでしょうね。無理もありません。ただ実は、そこに私たちの闇があります。「意味を求める」という闇です。

 カミュの随筆にシーシュポスの神話(昔はシジフォスともいいました)というお話があります…昔、神をあざむいた罪でシーシュポスは罰を受けます。それは大岩を苦労して山頂に押し上げねばならないのですが、頂上まで押し上げた途端、その岩がごろごろと麓まで転げ落ちてしまいます、シーシュポスはそれを永遠に繰り返さなければならないのでした…これは「不条理」、意味のない労働という罰を与えられた神の物語ですが、人間はこうした意味のないことに耐えられません。

 だから人間は意味を求め、それを理解することをとても大切にします。しかしどうでしょう。では「理解」は本当に人を救うでしょうか。

 実は人間の知恵の延長線上に救いはない、と見破られたのがお釈迦さまでした。人類で初めて、仏の本願に遇われたお釈迦さまは、人間があまりにも理屈に頼っており、またその理屈によって互いに争い、迷い、苦しんでいることを悲しまれました。そしてお釈迦さまが説かれたのが、法蔵菩薩が阿弥陀仏となってゆかれた人智を超える生命の歴史の「物語」だったのです。

 物語は大切です。最近では物語は「ナラティブ」という哲学用語にもなっているようですね。さて、物語なくして人智を超えた表現はありません。宇宙的視点から捉えた真実は物語でしか表現できないのです。人間の価値観や理解力では真実には到達できないのです。だから「測量できない(測量なきゆえに)」と言います。ゆえに「難思(難思光仏)」とも言われます。難思の光は理解できなくとも、事実、仏の光として私たちに届いているからです。

 ひとつの例を挙げます。DNAと言う人間の遺伝に関する最先端の研究がありますね。細胞の緻密な設計図であるDNAは科学の発展によってその内容が明らかになりました。しかしDNAは人類がそれと知らない時代からも、存在し、そしてきちんと機能してきましたのです。お釈迦さまや親鸞聖人の時代に、科学的にはそのことをご存知なくても、それと見出される前から生命の神秘はそのはたらきを保ちつづけてきたのです。

 実は科学文明とは生命の真実にようやく追いついてきた理屈にすぎないわけです。 おそらくまだまだ私たちにとってはわからないことばかりです。それが全部分かれば生命の神秘を、宇宙の神秘を解き明かしたことになるのでしょうか。何かが発見されればおそらくきっとさらにその次、またその次が待っていることでしょう。探究を無駄とは申しませんが、探求が全てではないのですね。

 あれこれと探求し、理解する思考は人間の純粋な姿勢ですが、一方で、念仏が私に届いてきた「思考を超えた不思議」そのものにも、素直に手を合わせてほしいのです。

 「南無阿弥陀仏」と、如来のみ名をただ稱え、理屈を超えた世界に向き合えたとき、私に先立って念仏を称え伝えてくださった方々の歴史があることに気が付きます。一人ひとりのご縁をきっかけとして、そういった方々が「諸仏」となって眼前に立ち上がってくださいます。それは一つの「物語」です。その物語が、日々理屈に振り回され、押しつぶされそうな私の救いの原動力(功徳)となってくださるのです。

翫湖堂・2015年5月号所収・一部web用に編集)