和讃にきく 第13

13回・因をたずねて

光は与えられるもので、自分から作った光なんて大したことないんですよ。世界は光で溢れていますからね。

今回は、浄土和讃の12です。

 神光の離相をとかざれば(じんこうの りそうを とかざれば

  無称光仏となづけたり(むしょうこうぶつ と なづけたり

  因光成仏のひかりをば(いんこうじょうぶつ の ひかりをば)

  諸仏の嘆ずるところなり(しょぶつの たんずる ところなり

 今回の御和讃は少し言葉が難しいですね(いつも難しいですか?)。

 「神光」の神とはいわゆる神さまを指す言葉ではありません。「神」という字は「稲妻と祭壇」を示し、あたかも稲妻のように、人間の知恵では捉えきれない力やはたらきを指します。

 これまで仏の智慧を十二の光やはたらきになぞらえてきました。それは人間の知恵を遙かに超えたはたらきです。だから「神光」と表現します。

 さて、人間の知恵とは何でもかんでも言葉で説明し、かたちに表さないと気が済まない、つまり具体的な「相」を示さないと理解できない癖があります。法話でも具体的な例をあげてお話ししないと聴いておられる方々が、すぐに退屈そうな目に変わるのがわかります。仏の光はそういった相をほんらい離れているわけですから「離相」と申します。

 ここで考えてみましょう。この文章をいま、皆さんはどんなルート(道筋)を辿って手にして読んでおられますか。これ、ただ配っただけでは読んでもらえません。特に現代のように、世の中に文字が溢れている中、受け手が読む気にならなければ捨てられてしまうでしょう。さらにこの文章は日本語が読める人と、それなりの年齢でなければ理解できません。ただ「読む」という行為一つにしても色々あるのです。さらに読み始めても、「つまらない」と共感してもらえず途中で投げられてしまう場合もあるでしょう。このように、一人ひとり違うルートがあるのです。どんなに条件を整えても他人と同じルートを辿ることはありません。実は、簡単に「相」に表すことのできない世界こそ、我々の日常なのです。

 文章ひとつ取っても、このようにいろんなルートがあるというのですから、本願の深淵を説く仏法が、一人ひとりの心に響くまでには時代・国土・言葉のみならず、個人の体調や気持ちの方向など、さまざまなルートを乗り超えなければなりません。それでも届かないことだってあるのです。

 ちなみにこのルートの数のことを路(みち)と申します。路はいくつもあります。だから「俺が何を選ぼうと勝手だと言う選び方りましょう。ただし、それゆえに「迷路」と申します。たくさんあるのですが、「俺が・わかりやすい・納得できる」選び方をしていると結局は迷いますよ、と言うことですね。

 そんな中、お念仏の教えが縁あって私の手元に届いているのです。不思議だと思いませんか。まさに「離相」。その理由は言葉では説明できませんね。だから「無称光」といいます。

 また、仏法を通して真実に気づく智慧は、じわっとくるのではなく「ああそうか」とひらめくように届きます。だからそれを親鸞聖人は「光」に譬えられたのでした。先ほどの「路」に対して、これを「道」と申します。念仏の一道とはこのことですね。私が選ぶのではなく、私に届いてきたのです。だから迷いがないのです。

 そうすると、私に仏法が届いてきた「今という相」のみが、私にとって確実であり、ふたつとない、かけがえのないこれまでのルート(人生)を表すものでありました。因果の果とは求めゆくものではなく、今ある私の姿。その今から尋ねる歴史こそが、私が自然と寄って立ってきた「因」であり、仏教とはそれをたずねる教えなのです。

 釈尊は阿弥陀仏についてそのように説かれました。そしてその阿弥陀仏の徳を諸仏は「嘆ずる」=まさにそのとおりだと感嘆して、阿弥陀仏を褒め称えるのです。人はその阿弥陀仏の願いをうけ、「ただ口に念仏を申す」ことで、自己中心的な「果を求める相」を離れ、因をたずねるほんとうの人生に開かれてゆくのです。

翫湖堂・2015年6月号所収・一部web用に編集)