和讃にきく 第14回
第14回・日月のひかりを超えるもの
太陽以上の明かりを私たちは知らないのですが、そこに月を足すことで、仏の教えによる心の解放がいかに強力かを譬えて下さろうとした昔の人の発想力に脱帽します。
今回は、浄土和讃の13です。
光明月日に勝過して(こうみょう つきひに しょうがして)
超日月光となづけたり(ちょうにちがっこうと なづけたり)
釈迦嘆じてなおつきず(しゃか たんじて なおつきず)
無等等を帰命せよ(むとうどう を きみょうせよ)
「超日月光」というお名前もまた、阿弥陀様の十二光のひとつです(12番目になります)。
この世には人の知恵の及ばぬ光があります。日(太陽)と月の光です。人間が作りだす光がどれほど明るくとも、太陽ならばこれほど強く明るく、月ならば根気強くどこまでも、そしてそのいずれもが持つ特徴として、これほどの広範囲を照らすことができません。しかし、その2つの光を合わせたとしても、阿弥陀如来の光明にはかなわないというのです。
ただどうでしょう。日と月を合わせたよりも明るいと言われると、現代人は月がどうして輝いているか知っているための弊害があります。つまり、月光は日光に対して付録の光であるように想像しませんか。日光と月光はもとは一つの光です。そうです、光源は太陽ですものね。日光を月面で反射しているのが月光です。ゆえに、付随するもの、付録のような存在に考えることも致し方ないかもしれません。
次のようなお釈迦様の説話があります。
ある町で2人の画家が腕を競いあっていたのですが、王様がその2人の優劣を決めようと、それぞれ得意の絵を描くよう命じられたのです。1人の画家はすぐ製作にとりかかり、半年後、素晴らしい絵を描き上げました。ところがもう1人の画家は壁を磨いてばかりで少しも絵を描きません。王様は最初の画家の絵をご覧になって感服されましたが、壁ばかり磨いていた画家の絵を見て驚いたのです…それは、最初の画家の絵よりも深みのある素晴らしい絵だったからです。王様が感嘆しておられると、その画家が静かに言いました「これは私が描いた絵ではありません。私はただ壁を磨きあげただけなのです。壁に相手の画家の絵が映っているだけにすぎません」と。
お釈迦さまはこのお話のあと、「絵を書いていたのが目連で、壁を磨いていたのが舎利弗であった」と言われたそうです。
2人ともお釈迦さまの高弟です。二人は幼なじみで、一緒にお釈迦様の弟子になりました。目連は「神通第一」、舎利弗は「智慧第一」と言われます。当時から目連は太陽のような存在で、舎利弗は月のような存在とされていました。その上でこのお話があるわけですが、大切なのは、日光のような存在の目連尊者と、月光のごとき舎利弗尊者の存在感の違いです。私たちは明るくまばゆい存在に惹かれがちで、静かな存在は見失いがちです。
そうであるがゆえに、テレビや新聞で大々的に報じられるとそれを鵜呑みにし、物事の本質がなかなか見えません。大きなものにつられて目移りし、比べたがるのが人間の本質です。日光も月光もどちらも比べることのできない存在です。日光は生き物を育みますが、月光は闇夜にわたしたちの行く先を照らします。
ことさら、お釈迦さまは「月愛三昧」といって、月のもつ静かでやさしく包み込む光を大切に受け止められました。それは日光とどちらが優れている…という単純な比較の話でなく、人間が見落としやすい、微かな存在の大切さ、闇夜を照らす優しさを大切にされたのです。
まばゆい光と柔らかな光、どちらにも役割があって比べるものがない。だから「無等等」と親鸞聖人はいただかれ、私たちがつい見失いがちな世界を「超えて」照らしてくださる如来のはたらきに手をあわせなさい(帰命せよ)と仰るのです。
(翫湖堂・2015年7月号所収・一部web用に編集)