和讃にきく 第15

第15回・すべてのいのちとともに〜旧衆の稱讃❶〜

かつて控え室まで押しかけてきて「門徒は菩薩にはなれん!」と力説する悲しい住職にお会いしました。え?何?差別発言?と思いながら、じゃあ誰がなれるんですか?と逆に問うたら「親鸞聖人ならなれる!」…たぶん具体的に人間が菩薩に変身するとでも思い込んで聞いているのでしょうね。宗祖は「相」とおっしゃっているのに。「聞法はぐるりの拝める手をいただくことです」という言葉もあるくらいなのに。

同じように聞法していても全くきこえない人っているもんです。それが住職であっても。

今回は、浄土和讃の14です。

 弥陀初会の聖聚は(みだ しょえ の しょうじゅは

   算数のおよぶことぞなきさんじゅのおよぶ ことぞなき

   浄土をねがわんひとはみなじょうどを ねがわん ひとはみな

   広大会を帰命せよこうだいえ を きみょうせよ)

 これまでのご和讃の味わいは「仏德讃嘆(仏のお德をほめたたえる)」・「光明の德相(阿弥陀如来の十二の光のお德の相をほめたたえること)」を主としてまいりました。

 そしてこれよりしばらくは衆德(念仏に出遇われた人の德)をききひらきます。

 特に今回から続く4首は、特に「𦾔衆の稱讃(きゅうしゅう の しょうさん)」とよばれます。「𦾔」とは難しい字ですが、「旧」の旧字体です。よって「旧衆」、私たちに先立ってお念仏に出遇ってくださった諸先輩方の姿に学び、言葉でやわらげ、ほめ讃えましょう(稱讃≒和讃)ということです。

 さて、今回のご和讃ですが「弥陀初会」とは、意味からすると、阿弥陀如来が本願を誓い立てられたそのとき、人としてはじめてそのお心に出会ってくださった方を指します。それは誰かと申せば、まさに「お釈迦さま」であるわけですが、親鸞聖人はそこのところを「聖〝聚〟」と表現しておられます。聚とは「なかま」を意味します。よってひとりではなく複数の人を指します。さらに続けて「算数のおよぶことぞなき」とされます。つまり、数え切れませんよ、ということで、弥陀初会は決して「お釈迦さまひとりではない」とおっしゃるのです。

 このことを、かつて故・竹中智秀先生は、「私たちこの世間に生まれて生きるものは、すべてが『弥陀初会の聖聚』です」と仰いました。

 視点を変えてみましょう。本願の歴史はお念仏の歴史であります。お釈迦さまが説かれたお念仏の教えが、数千年の時を経て私に届いてきたわけですが、「空白期」はなかったのでしょうか。たとえば百年ほどは誰もがすっかり忘れていた…そんな時期はなかったのでしょうか…。実は「なかった」のです。お釈迦さまに始まり、数千年の時を超えて「いま」「私」にまで伝わってきた事実は、どこかで必ず「絶えることなく」繫がってきたのです。

 言葉の表現からも、それがうかがえます。かつて住職の職場・難波別院に、チベットの僧侶方が泊まられ、数日でしたが寝起きを共にしたことがありました。彼らとは片言の英語でしかやりとりできませんでしたが、「南無阿弥陀仏」だけは翻訳なしに通じたのです。なむあみだぶつというより、なも・あみだーば/なも・あみたーゆすという発音でしたが、充分お互いに理解しあえました。

 念仏は日本に限定されません。中国、韓国、チベット、インド、英語圏でもそれ以外でもそうです。とにかく「伝わったところ、世界中のどこでも」通じます。それは「阿弥陀仏のお名前」なのですから、あたりまえなのですが。念仏でつながることを親鸞聖人は「四海の内みな兄弟」と仰いました。

 こうして、歴史を超え、国境を越え、「わが名を呼べ」・「釈尊に連なる聖聚であれ」と待ち続けてくださる法蔵菩薩の願心に、念仏を媒介として旧衆が出遇いつづけてくださった足跡をたどる以上、これまでも、これからも、いつでもが「弥陀初会」なのです。

 その時間と空間の繋がりと広がりを「広大会」と聖人は和讃されました。念仏は決して孤独の歩みではなく、時間と空間を超えて繋がってゆく歩みなのですね。

翫湖堂・2015年8月号所収・一部web用に編集)