和讃にきく 第16

16回・菩薩さまのお手伝い〜旧衆の稱讃

聞法はぐるりの拝める手をいただくことです

今回は、浄土和讃の15です。

 安楽無量の大菩薩あんらくむりょうの だいぼさつ

    一生補処にいたるなりいっしょうふしょに いたるなり

   普賢の徳に帰してこそふげんの とくに きしてこそ

   穢国にかならず化するなれえこくに かならず けするなれ

 前回から続いて「旧衆(𦾔衆)の称讃」とされる御和讃です。

 旧衆とは私たちに先立ちお念仏の人生を歩まれた先輩方のことですが、 今回の主語は「大菩薩」で始まります。つまり菩薩の徳をうたっておられる御和讃ということになります。どういうことでしょう。

 まず、菩薩とは自らが仏になるため歩みを進める存在ですが、同時に私たち衆生に、仏道へ目覚めてほしいと「導いて下さる」存在でもあります。その代表が「法蔵菩薩(阿弥陀如来の前身)」ですが、そのご生涯は「 一生補処」といいます。それは「一度だけ苦しみの生を生きるけれども、必ず仏になる」という意味です。

 話すと長くなりますので略しますが、菩薩は私たち衆生を救いたいという願いを建て、52段階の途方もない長い修行の途上に居られます。その中でも特に法蔵菩薩は、私たちが念仏すること(法蔵菩薩の修行が終わったお名前を呼ぶこと)を願いながら仏にならずに待ち続けてくださっているのです。

 法蔵菩薩のお誓いは全部で48種類ありますが、特に18番目の誓いをお釈迦様は「仏説無量寿経」にこうお説きくださいます。「たとえ私が仏になったとしても、私の願いどおり、私の名前を称えた人が、万が一にもお浄土に生まれられないようなことがあったら、これまでの修行を投げ捨て、仏になることをやめます(ー第18願ー取意)」と。法蔵菩薩の仏名は「阿弥陀」と呼びますから、「私の名前」とは南無阿弥陀仏です。なお、これが浄土真宗において南無阿弥陀仏を称えることを最も大切に勧める最大の理由です。

 「衆生のためなら自ら生涯をかけた苦労・修行の歩みを捨ててしまえる」と仰るのです…私たちは他人のためにそこまで尽くすことができるでしょうか。人間のその時だけで、さらに自分の都合によって変化するような浅い慈悲に比べ、菩薩の慈悲は時を超えて通底し、そして徹底しています。そもそもこうした慈悲を願われたのが普賢菩薩であるため、別名「普賢の徳」とも申します。まずもって今回の御和讃はこのことを謳っています。

 さて、親鸞聖人は常々「私に先立ってお念仏してくださった先輩方」すなわち「旧衆」は私たちにとって菩薩と等しいのだと仰います。日々生きることに迷える衆生をどうして修行もなしに菩薩と等しいと言われるのでしょうか。

 それは、私たち自身、先輩が称えるお念仏のお蔭でお念仏に出遇えた事実があるからです。ともすると私は今頃法蔵菩薩の願いを踏みにじっていたかもしれません。念仏の諸先輩方にはそのような自覚はなかったかもしれませんが、念仏に出遇わせてもらった私の目からみれば、この穢国(苦しみ多い人間世界)に化現した法蔵菩薩の御使いと受け止めることもできるのではないでしょうか。

 親鸞聖人がこう仰る背景には「仏説無量寿経」の「便同弥勒(念仏の行者は菩薩とみなしても差し支えがない)」というお言葉があり、宗祖聖人はこの言葉を戴かれたのでした。

 繰り返しますが、ここで勘違いしてはいけないのは、念仏の行者が菩薩になるとか、念仏したから菩薩になれるという意識ではないということです。もしそのような意識が微塵でも入ればそれは単なる「打算」です。全てが堕落してしまうことでしょう。

 念仏の諸先輩方はご自身目線では悶々とした日常や、やりきれない出来事に直面して生きられた(穢国に生きる)としても、念仏を意識せずに他(私)に伝えてくださっている(普賢菩薩のお徳に帰依して、化する化身として現れている)、そのことが便同」、菩薩とみなして差し支えなし、ということですから。

 従って今回の御和讃もまた「旧衆の称讃」であるわけです。また、これは将来的に「旧衆の仲間となりゆく私たち」への励ましと責任の呼びかけでもあります。

翫湖堂・2015年9月号所収・一部web用に編集)