和讃にきく 第17回
第17回・法蔵菩薩の願い〜旧衆の稱讃❸〜
二つの掌(たなごころ)を合わせることは、二つの山を合わせるよりも難しい、とかつてお聞きしました。
今回は、浄土和讃の16です。
十方衆生のためにとて(じっぽうしゅじょうの ためにとて)
如来の法蔵あつめてぞ(にょらいのほうぞう あつめてぞ)
本願弘誓に帰せしむる(ほんがんぐぜいに きせしむる)
大心海を帰命せよ(だいしんかいを きみょうせよ)
今回の御和讃も「𦾔衆(旧衆…念仏の先輩方)の稱讃」です。ちょっと意訳してみましょうか。
十方衆生、すなわち全世界の生きとし生けるもののために、救いの智慧である如来の教えをあつめられました。そうして数ある菩薩さまの中でも特に衆生を救うための願いを建てられた法蔵菩薩すなわち、仏名・阿弥陀如来の本願に、私たちが帰依するように願い、とりなしてくださいました。私たちもその大きなお心に手をあわせたいものです。(住職意訳)
少しわかりにくいのは主語がないからです。「誰が」如来の教えを集められたのでしょう。「誰が」私たちを阿弥陀如来に導いてくださったというのでしょう。
それこそが、あらゆる菩薩さま方であります。前回の御和讃では「安楽無量の大菩薩」と説かれた菩薩さま方が、今回の御和讃では「𦾔衆(旧衆)」、私たちに先立つお念仏の先輩として讃めたたえられているのです。
菩薩さまとはこれまでいただいて来たとおり、実に52段階にもわたる厳しい修行をされつつ、それぞれの仏土を成就するための願いを建てられ、最終的には仏になることを目指して努力してこられた方々です。私たちなど到底及びもしないゆるがぬ精神力と、強靱な肉体を兼ねそなえ、全てを見通す力を身につけられました。その上で、あと一歩で仏になれるというところにおられます。
本来ならば、そこでそのまま修行を完成させて諸仏となられるはずなのですが、なみいる菩薩さまの中でお一人だけとんでもないことを言い出した方がおられたのです。
それが「法蔵菩薩」です。法蔵菩薩は「この世のありとあらゆる、生きとし生けるもの(衆生)が救われない限り、仏にならない」と誓われたのです(第18願)。それはつまり、衆生たちが、法蔵菩薩が成仏された時のお名前(南無阿弥陀仏)を呼んでくれないなら、これまでの修行を全部捨てても構わないと誓われたのです。せっかくこれまで長年歩んでこられたのに、今さら何を言い出すのかと、他の菩薩方はそれを聞いてさぞ驚いたことでしょう。
そもそも心がわりと目移りが激しく、プライドだけは高く、被害者意識に凝り固まっているのが衆生です。生まれる前の姿をも知らず、この後死ぬ先のことすら見通せないくせに、あたかも全世界の中心であるかのように振る舞う、そんな厚かましい衆生…すなわち「私たち」に、自らが究極的に仏と成るためのたった一つの最終条件を託されたわけです。
菩薩方はそのことに深く感動されました。法蔵菩薩の心は海のように広くて深い(大心海)と。なんとか衆生が目覚めてくれるようにしたい、そう願って法蔵菩薩を助けつつ、日々私たちに仏法を呼びかけ続けてくださっているのです。
残念なことにそれをうっかりと聞き洩らしているのも、やはり私たち衆生です。先立って下さる菩薩さまの願いに謙虚に耳をすませたいものですね。
(翫湖堂・2015年10月号所収・一部web用に編集)