和讃にきく 第18

18回・法蔵菩薩の願い〜旧衆の稱讃

観音菩薩・勢至菩薩はともに阿弥陀様の脇侍として私たちを救おうとなさっておられます。そのお手伝いが「南無阿弥陀仏」と口に称えることなのです。

今回は、浄土和讃の17です。

 観音勢至もろともにかんのん せいし もろともに

   慈光世界を照曜しじこう せかいを しょうようし

   有縁を度してしばらくもうえん を どして しばらくも

   休息あることなかりけりくそく あること なかりけり

 「𦾔衆の稱讃」(きゅうしゅうのしょうさん)の最後となる御和讃です。

 ここには「観音菩薩」と「勢至菩薩」のお名前がうたわれてあります。それぞれどういった菩薩さまかと言いますと、まず観音菩薩は観自在菩薩とも、また救世菩薩とも言われます。困っている人がいたらすぐに助けにきてくださるとされ、多くの信仰を集めている菩薩さまであります。

 そして勢至菩薩は大精進菩薩とも言われ、智慧によって一切を照らし、私たちを正しい方向に導く菩薩さまであります。いずれの菩薩さまも浄土教においては阿弥陀如来の脇侍(両脇に控えて中尊の教化を補佐する役割)を担っておられるとされます。つまり、阿弥陀如来が私たちを救おうとされる、その願いの一翼をそれぞれ担って下さっている菩薩さまなのです。

 さて、今回の御和讃にあります「慈光世界」とはすなわち、これまで見てきた阿弥陀如来の十二の光の世界を指します。迷える私たちに闇夜の灯のように照らし包み込んでくださる阿弥陀如来ですが、そこまでしていただいても光に気づけない・出遇えないのが罪深き私たち衆生です。

 そんなとき、観音菩薩は母のようなやさしさで、また勢至菩薩は父のような厳しさでもって、阿弥陀如来の光の世界になんとか出遇ってほしい、と願い、励まし続けてくださっているといいます。「有縁」とは縁あるもの、つまり私たち衆生のことです。「しばらくも、休息あることなかりけり」とは、それこそ24時間365日、それこそ私が産まれる前から、さらには浄土に還ったあとも、片時も(しばらくも)休みなく、ということです。

 これを「単なるおとぎばなしだ」と片付けてしまうこともできます。しかしどうでしょう。皆さんにとって観音菩薩、勢至菩薩と呼べるような方との出遇いはありませんでしたか。父であり、母であり、祖父であり、祖母であり、また師であり友人であり、時には子や孫かもしれません。時には厳しく、時には優しく。もちろん順縁ばかりではありません。時に逆縁としてひどい仕打ちで気付かせてくださった方もあったのではないですか。

 ともかくどんなご縁であったとしても、それが「私が念仏に出遇うきっかけとなった方々」は、たとえ本人にその気がなくとも、「人をして仏法に導いてくださった方・はたらき」なのです。そういった方を菩薩と呼んでも差し支えなし、ということも以前に述べました。この連環が悠久の歴史において休みなく続いてきたおかげで、この21世紀の現代にも念仏は絶えることなく届いてきたのです。

 菩薩は、どこか遠くの存在であったり物語上の空想の産物ではなく、私の目前の「はたらき」そのものでした。さまざまな相(姿)で関わり続け、人生の喜び悩み苦しみ悲しみの中から阿弥陀様の光の世界に出遇うことを望んでくださっているのです。

翫湖堂・2015年11月号所収・一部web用に編集)