和讃にきく 第19回
第19回・浄土からかえってくる〜新衆の稱讃①〜
私たちは「旧衆」より待たれている「新衆」であるともいえましょう。
今回は、浄土和讃の18です。
安楽浄土にいたるひと(あんらく じょうどに いたるひと)
五濁悪世にかえりては(ごじょく あくせに かえりては)
釈迦牟尼佛のごとくにて(しゃかむにぶつの ごとくにて)
利益衆生はきわもなし(りやくしゅじょうは きわもなし)
前回までは私たちに先立つ念仏の諸先輩の徳を讃える御和讃でしたが、今月からは「新衆の稱讃」というところに入ります。
新衆はこれまでの旧衆に対応します。新しい衆、すなわち私たちを含む、これから先の念仏者はどのような徳をいただくのかということを宗祖は和讃を通してほめ讃えられるのです。
「安楽浄土」とは念仏によって開かれる「いのち」の世界・お浄土のことですね。そこは安楽であると。そして「五濁悪世」とつづきますが、五濁とは仏説阿弥陀経に列記されます「劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)」の5つの濁りです。それが世に満ちているので、私たちの住む今の時代を「悪世」と仰います。
ちなみに劫濁とは時代の濁りです。見濁とは、ものの見方の濁りです。そして煩悩濁とは、煩悩によって悪が蔓延する濁り。衆生濁は我々の資質や果報が低下劣悪となる濁りと言われます。最後は命濁。命が短くなる濁りです。これは現代社会の不透明感や、人や食べ物が信用できないさま、よかれと思って行ったことが逆の結果になってしまうさま、あるいは思いそのものが相手を貶めてやろうとか、相手の弱点を突くことばかりに終始する様(人間的にちっぽけなさま)、を表します。浄土に対する私たちの世界・「穢土」の現実が見事に言い当てられているとは思いませんか?
浄土真宗をシンプルに言い切ってしまえば、念仏者が念仏をとおして人間ではどうしようもないそれら穢土のありさまを自覚せしめられ、阿弥陀仏の力によって穢土を超克して浄土に至る教えです。ただここで気になる言葉があります。それは五濁悪世に「かえりては」です。折角この乱れた世界を見限り、浄土に至るというのに、そこからわざわざ帰ってくる・出てこられるとあるのです。
実はこれこそが真に念仏に出遇った方の「徳」なのです。
喜びを独り占めしないのです。さらには他人の喜びを共に分かち合い、他人の悲しみを共に悲しめるようになるということです。これまでにも触れてまいりましたが、念仏を共とする聞法生活はそういう奇跡的ともいうべき精神的転換を私たちにもたらします。だからその身や生きざまは愚痴無知のままにして「釈迦牟尼佛のごとし」と喜ばれます。釈尊はなくなられて久しいのですが、念仏衆生はみな、釈尊のご在世のときのように、他者と共にあって、五濁の世を生きつつ、世を明るくする存在なのですよ、と今回の御和讃はうたわれるのです。もちろんその力は衆生にはなく、阿弥陀のはたらきによるのですが。
お寺でいいお話を聴いたら、人に教えたくなりませんか。新聞やテレビでいい言葉にであったら切り抜きをしたり、録画したり、そしてそのワクワクした気持ちを誰かに伝えたくなりませんか。真に仏法に眼を開かれた方は、念仏の教えによって浄土の住人の仲間入りをし、その喜びを伝えたくなるのです。
もちろんだからと言って聖人君子のような生き方に変わるわけでもありません。つまりは念仏を喜び、聴聞しながらも、平素は愚痴無知の身を生きるわけです。それは一見矛盾しているようですが、そうした生きざまはやがて迎える死を超え、後の世に生きる人を勇気づけ、支えてくださいます。それはあたかも一旦浄土にお帰りになった方が戻ってくださっているかのようです。
これを「往相・還相の回向」と申します。親鸞聖人は真実の浄土真宗に往「相」と還「相」の回向がある、と仰いました。「相」は姿です。よって行ったり帰ったりというように私たちの概念で捉えてはいけません。よく電車や新幹線に例える人がありますがそれは間違いです。相は「そのように見える」ということです。
浄土とは行っておしまいの世界ではありません。私たちの安易に想像する「行った」世界を「胎宮」といい、疑いの世界で終わってしまいます。
これはまたの機会にお示ししたいのですが、「行ったこと」を証明するためには「出る」ことが不可欠なのです。
(翫湖堂・2015年12月号所収・一部web用に編集)