和讃にきく 第20

20回・身口意の三業〜新衆の稱讃

私たちの周りに溢れる食品。全部いのちなのです。捨ててはいけません。

私たちの周りに溢れる食品。全部いのちなのです。簡単に捨ててはいけないことは、子どもでもわかりますよね。

今回は、浄土和讃の19です。

 神力自在なることはじんりき じざい なることは

   測量すべきことぞなきしきりょう すべき ことぞなき

   不思議の徳をあつめたりふしぎのとくを あつめたり

   無上尊を帰命せよむじょうそんを きみょうせよ

 前回と同じように、「新衆の稱讃」と呼ばれる御和讃です。「新衆」とは、いま念仏をいただく人だけではなく、まだ見ぬ念仏者、すなわち現代から未来にかけて、お念仏に出会う新たな人々の救いを讃めたたえる御和讃なのです。

 「神力」とは、何も神様に限定することではありません。本来の意味は「人間の思いを超えた力」のことなのです。それは「測量」できるものではありません。親鸞聖人は加えて「すべきことではない」と念を押しておられます。これはどういうことでしょうか。

 私たちはいつも「測量(測量)」しています。たとえば世間を騒がす事件が起きたとき、必ず「犯人さがし」をしますね。職場でも、家庭内でも同じことをしています。「誰が悪いのか」「誰の責任なのか」と。もちろん法治国家なのですから、責任の所在が明らかにならなければ事件の再発防止策になりません。しかし、仏教はもう少し大きなものの見方をいたします。

 それは「犯人を捜し当てて、罰をあたえたとして、それでその問題は根本的に解決するのですか」という問いです。 

 以前にも記しましたが「身口意の三業(しんくいのさんごう)」という言葉があります。

 これを説明するのに法座でまず「人を殺した事がある人、いますか」とお尋ねすることがあるのですが、たいてい失笑されます。そんな人ここにはいない、と。しかし「本当でしょうか」と改めてお尋ねします。実際に殺したことはなくとも(身)、口で「死んでしまえ」と言ったことはありませんか(口)、さらには「死んでしまえばいいのに」と思ったことはありませんか(意)と問うと、「ああ、まあ、言われてみればね。」という顔をされたり、正直な方は少しうつむき加減になられます。私たちは身や口の罪は問うことがあっても、意の罪に思いが至りません。しかし仏教はいずれもが「業である・罪である」というのです。その業は目に見えない・気づかないところで蓄積され、私たち一人ひとりを形作っているのです。

 私たちの行う測量とは「目に見える罪業の切り分け」に過ぎません。根本をたずねれば、誰もが罪を犯して生きているのです。牛を殺した事がないといっても、焼き肉を食べれば(身・口)、また食べてみたいと思うなら(意)、牛からすれば皆、ひとしく「牛殺しの仲間」にすぎません。これが仏の眼差しです。ただ、そうしなければ生きられず、そしていのちをいただきつつ、いのちを紡いできた。それが私たちなのです。

 食事一つをとってみても私たちは慎み深くあらねばならないのですが、現代ではさらにフードロス(食品ロス)の問題が混迷を極めています。いわば、我々は人類の歴史の中でも最もいのちを無駄にし、捨てている社会の一員なのです。よくこれまで罰せられずにきたものだと思いませんか。これこそが神力自在・不思議の徳とはいえませんでしょうか。ただしこの、フードロスのリスクはいつか私たちに跳ね返ってくる覚悟が必要かもしれません

 どうしたら人間に生まれられるかも知らない私たちが、気がつけば人間となり、人間の業を日々犯し続けています。そして現代はさらにその混迷が見えにくくなり、自分では気づかないうちに深い罪を犯し続けています。

 そんな人間だけではなく、生きとし生けるものを救おうと願われるのが法蔵菩薩なのです。人間の私たちに赦(ゆる)されるのは、その法蔵菩薩が願いを成就され、無上尊(この上なき尊い方)になられたお名前、すなわち「阿弥陀仏に南無する」というお名前をせいぜい「忘れないこと」なのです。

 それすらおぼつかない私たちですが。

翫湖堂・201601月号所収・一部web用に編集)