和讃にきく 第21回
第21回・智慧ほがらか〜新衆の稱讃③〜
たとえその合掌の心の中身が自分の願いごとだけであったとしても、もし「南無阿弥陀仏」と口に称えることができたなら、その姿は大乗菩薩道となんら見分けがつかない、ということです(だからと言って南無阿弥陀仏で願い事が叶うというわけじゃありません←ここ大切)。
今回は、浄土和讃の20です。
安楽声聞菩薩衆 (あんらく しょうもん ぼさつ しゅう)
人天智慧ほがらかに (にんでんちえ ほがらかに)
身相荘厳みなおなじ (しんそうしょうごん みなおなじ)
他方に順じて名をつらぬ(たほうにじゅんじて なをつらぬ)
今回も「新衆の稱讃」と分類される御和讃です。親鸞聖人はこれらの御和讃をとおして、今と、そして未来に念仏と出遇ってくださるであろう方の、全てに手を合わせ、いただいておられるのです。
今回はお浄土におられる菩薩衆(菩薩さま方)のことがでてきます。その方々はみな「安楽」、つまりとても穏やかで幸せそうで、ニコニコとほがらかにしておられます。お浄土におられる菩薩衆は、人の姿や天人の姿をとっておられつつも、仏さまと同じお姿(身相荘厳)をされておられると言います。一見、私たちの人間世界と変わらぬ姿に見えるのは菩薩さまから見て他方、つまり私たちの娑婆世界にわかりやすく順じてくださっているためで、浄土に居られること自体が仏様の智慧によって荘厳されているのです(他方に順じて名をつらぬ)。
さて、親鸞聖人は菩薩さまのお姿をなぜこんなに丁寧に、繰り返し和讃してくださっているのでしょうか。
真実の教・仏説無量寿経に菩薩さまの姿が描かれる場所があります。そこではお釈迦様が阿難尊者に向かい、「かのお浄土には3種類のひかり輝く菩薩がおられる」とお話しになります。ちなみに、最も大きく光輝く菩薩様とは観音菩薩と勢至菩薩で、三千大千世界の全てを光で包むといいます。次の菩薩方の光は100由旬(700〜800㎞です…1由旬は牛が一1日に歩く距離だとか…インドらしい表現ですね)の輝きだといいます。そして、最も小さな輝きの菩薩は「声聞衆」といって「身光一尋」、つまり両手を広げた程度(一尋)のささやかな輝きだというのです。
実は「声聞」という言葉は、大乗仏教の用語においてすこし特別な意味があります。それは「仏の教えを聞いて修行しても自己の悟りだけしか考えない人々」という、あまり良くない意味・批判の対象でもあるのです。ただしかしここでは、そんな菩薩様でも両手を広げた分の輝きはあるじゃないかという積極的な意味としていただくことができます。
さらりと読んでしまえば「へえそんなものか」と済ませてしまいそうですが、これこそが「念仏を称える行者」の姿ではありませんか。私たちが自らの「となえごころ」に執着せずに念仏申す姿は、菩薩衆に等しいというのです。そして同時に私たち人間ごときは、周囲を救いとる菩薩にはなれません。
「安楽声聞菩薩衆」とは、遠く離れたどこかの世界の菩薩さまことではなく、これまで私に先立って念仏してくださった方々、そしてその念仏を引き継いで今まさに念仏をする人々、さらには未来にやがて念仏するであろう人たち全てを指すのではないでしょうか。 その方々は凡夫の身そのままに念仏をとおして阿弥陀様の功徳を讃える菩薩行のお手伝いをされたのですから。
全ての人を救いたいと本願をおこされた法蔵菩薩は、今日も人々が「南無阿弥陀仏」と法蔵菩薩が成仏した時の名を称えてくれることを待ち続けておられます。そして、その願心に応え、誰かの口から念仏が称えられる瞬間、その念々に成仏(法蔵菩薩が阿弥陀仏となること)を遂げておられるのです。
どんな姿であれ、念仏が私の口から出るということは、まさに法蔵菩薩の願行をお手伝いする事にほかなりません。罪深く悩み多き毎日を送りつつも、念仏を称えるその念々においては菩薩と等しく扱われるのです。…もちろん、正式に菩薩となったわけではないので、相変わらず煩悩の身はそのままなのですけれど。
(翫湖堂・2016年02月号所収・一部web用に編集)