和讃にきく 第22回
第22回・菩薩道を歩むひと〜新衆の稱讃④〜
「おばあさんの3人組」で素材集・素材サイトを探したらこんな若々しいイメージしか見つかりませんでした。
確かにこれもただしくシニア世代なのですが、このように元気はつらつで健康ばかりが人間ではないのです…そして教えに出会われると、右のお話にあるように、たとえ病を抱えてもイキイキしておられるのもの。そういう写真はもはや素材集では手に入らない時代なのでしょう。
今回は、浄土和讃の21です。
顔容端正たぐいなし (げんようたんじょう たぐいなし)
精微妙軀非人天 (しょうみみょうく ひにんでん)
虚無之身無極体 (こむししん むごくたい)
平等力を帰命せよ (びょうどうりきを きみょうせよ)
浄土にうまれた菩薩衆は、みな同じ端正なお姿をしているといいます(顔容端正たぐいなし)。人間を超越し、かといって天人でもない。清らかな身体をし、それは何にもとらわれることがない…曇鸞大師(讃阿弥陀仏偈より)のお言葉ですが、宗祖はそのまま和讃に引用されました。その根源は如来の平等力によるものだというわけです。これは何を表しているのでしょう。
これはひとつのたとえ話ですが、かつて故・寺田正勝先生が、お寺に集まる仲良し3人組のおばあさんのお話をのこしてくださっています。いつもほがらかで、周囲を明るくしてくださる彼女たちをみて、
「この人たちこそ菩薩道の行人ではないか、と思われてなりません。自分のことばかり考えながら暮らして、しかも心に満たされないものをいだいている人の多い今日の社会に、自分のことは忘れてしまってみずみずしく生きているこの老婆たちは、まったく稀有の存在だと思われてなりません。
3人とも、それぞれの業をかかえて、悩みもあり惑いもあるにちがいないのですが、そのままに、それぞれ素直なのです。(略)親鸞聖人が「汝、一心正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん」ということばについて、「『汝』の言は行者なり。これすなわち必定の菩薩と名づく」といっておられますが、この「汝」のことばに、自分への呼び声を聞いているこのおばあさんたちを除いて、誰を一体菩薩といえるでしょうか。仏に護られて手放しです。
名もないつたない老婆たちの生活ですが、それなりに自分の人生に満足し、自分のいのちを精一杯生きているこの人たちに触れるとき、念仏の信心がここまで人を純粋にし完成するものであることに、驚かされるのです。(略)3人のおばあさんたちの亡くなったご主人は、ある人は大酒のみ、ある人はぐうたら、ある人は女狂いで、いつも困らされておったというのですが、それでも3人とも、よかった、よかった、と過去を大切にしておられます。その人たちとの生涯が、おばあさんたちに念仏をさし示してくれた、というのでしょう。(『念仏もうすのみ』より)」
このおばあさん達は、順風満帆の人生ではありません。元気はつらつ、若々しくいつまでも健康なお姿でもありません。その人生を文字どおり顔の皺に刻むように過ごしてこられ、それぞれ異なるご苦労を背負っておられます。しかし、どなたも一様に同じく、美しく、周囲を明るくします。寺田先生はその姿を親鸞聖人の他の御和讃から「染香人(せんこうにん)」と褒め称えておられます。染香人とは、まるでお香に染まりきった人のように、その場にいるだけで、その方の後ろ姿を見るだけで、ほっと香りに包まれるような、まさに「人生を荘厳されている」方をいいます。
それは自分達だけが無理をして気分的に明るく振る舞っているのではありません。自分達も、周囲も等しく心の底から明るいのです。人間がはからってできることではありません。人間がはからえば、必ず無理をしますから。南無阿弥陀仏の教えに出あわれた方は、無理をしません。難しい言葉なんか知らなくてもいいのです。ただ人生の向きを南無阿弥陀仏の側から変えていただくのです。それはまさに「念仏により平等に賜った力」を備えた「端正なお姿」なのです。
念仏を称える人はみな、人間の業はそのままにして、本人は気付いておられなくても、すでに浄土の徳を得ておられるのです。試みに手を合わせて南無阿弥陀仏といってみてください。自分に見返りも何もないのに、周囲を楽しくさせ、明るくさせる姿…それは大乗菩薩道の真ん中を歩む、まさしく菩薩さまなのです。
(翫湖堂・2016年03月号所収・一部web用に編集)