和讃にきく 第23回
第23回・法蔵菩薩の願いと誓い〜往生の勧讃①〜
悟りを開いてしまう諸仏と比べて、法蔵菩薩はそのままで私たちを待ち続けることを選ばれました。のちに諸仏から褒め称えられるとはいえ、この画期的な判断をされるまでに、どれほどの孤独に耐えられたんだろうと思います。
今回は、浄土和讃の22です。
安楽国をねがうひと(あんらくこくを ねがうひと)
正定聚にこそ住すなれ(しょうじょうじゅにこそ じゅうすなれ)
邪定不定聚くにになし(じゃじょう ふじょうじゅ くにになし)
諸仏讃嘆したまへり (しょぶつさんだん したまえり)
今回からは「往生の勧讃(おうじょうのかんさん)」と名づけられた御和讃に入ります。浄土真宗の勧める「念仏往生」の姿について、「勧讃(勧め・讃える)」しつつ、詳しく説き述べてくださる御和讃です。
「安楽国」とはお浄土のことです。仏説無量寿経に描かれるお話によりますと、そのむかし、法蔵菩薩は全ての人を救いたいと、人類に共通する本当の願い(=本願)を立てられました。そして「法蔵菩薩が仏と成ったときの名を呼ぶこと(南無阿弥陀仏)」で浄土を成就すると誓われたのでした。
つまり、念仏を称える衆生はだれでも「安楽国をねがうひと」となります。安楽国を願うことがそのまま法蔵菩薩の願心に応えることになるからです。これを受けられて親鸞聖人は「お念仏を称える方はすべて菩薩と等しい」「釈尊の親友」とまで仰るのです。
ただこのことは少し注意していただく必要があります。念仏を称えただけで簡単に菩薩になれちゃうぜ、というわけではありません。お念仏を口に称える一瞬だけ、凡夫の身そのままに「法蔵菩薩のお手伝いをしている身となる」ということです。
だから、ひとたび念仏を称えたとき、私自身に自覚はできないのですが、法蔵菩薩の願いの力によって正定聚=(必ずお浄土に参ることが約束される【正定】・諸先輩方の仲間入り【聚】)に入ることになるのです。どうして?何故?そうなるのかと聞かれても…それは法蔵菩薩が誓ってくださっているからとしか、言いようがありません。
「私が望むと、望まざるとにかかわらず」、法蔵菩薩は「ものの逃ぐるを追わえとる(親鸞聖人御和讃左訓)」ように、つまり「どこまでも追いかけていって首根っこを掴まえるように」助けてくださるというのです。ただ、その名を称えただけで、です。不思議ですね。
思えば人間の考えの及ばない遠い昔より、これまで多くの諸仏・諸菩薩も、どうすれば悩める衆生たちを救えるか真剣に考えてくださいました。そしてその歩みの末に仏となって衆生をご自身の国土に迎え入れようとされました。ところが当の衆生はといいますと、悩んでいる自覚もさらさらなく、逆に常に目の前のことやその場限りの欲望に振り回されることを悩みと履き違え、自分が正しく、相手は間違っていると疑うことなく、他者を安易に批判し、互いに掠め取り奪い取り、争い合い殺し合うことをあたりまえのようにして生きています。救いの道をどれほど用意しても、おのれが納得しないと、受け取ろうともしません。挙げ句の果てにとんでもない回り道をしてみたり、違う道に迷い込んだりしているありさまです。これを邪定・不定聚と言います。邪(よこしま)な癖に自分を正しいと断定し疑わない、自分の気に入った仲間内だけでまとまって、他者を排除していることに気がつかない姿です。
法蔵菩薩もこういった衆生を救うためにずっと思惟し続けられたのですが、その願いの完成を目前にし、一旦仏になることを見送られました。多くの諸仏は驚いたことでしょう。そして法蔵菩薩は決断されます。私が仏になるための最後のきっかけとして「衆生が我が名を呼んでくれるまで待つ」というお誓いでした。南無阿弥陀仏が衆生の口から漏れ出るとき、法蔵菩薩の願いは成就し、阿弥陀仏となるという約束をされたわけです。
これこそが、諸仏がずっと探し求めていた「誰もが」「必ず」救いとられる道だったのです。どれほど準備していただいても、なかなか手すら合わさらないお粗末な衆生が我々なのです。それでも諸仏はこの法蔵菩薩の願いの素晴らしさを心の底から受けとめ、感じ取られたのです。だから「讃嘆」されるのです。
そういえば他を褒めるということはおそらく私たち衆生にとっては最も難しいことかもしれません。なぜなら私たちが褒める姿には「ねたみ」や「ひがみ」が常に背中合わせではありませんか。少しは諸仏の讃嘆するお姿を見習わないと、ですね。
(翫湖堂・2016年04月号所収・一部web用に編集)