和讃にきく 第24

第24回・こえをきく〜往生の勧讃

人も動物も、声を聞きたいと願い続けています。たとえ声が聞こえなくとも、その空気の振動を肌で感じたいと。

今回は、浄土和讃の23です。

 十方諸有の衆生はじっぽう しょうの しゅじょうは

   阿弥陀至徳の御名をききあみだ しとくの みなをきき

   真実信心いたりなばしんじつしんじん いたりなば

   おおきに所聞を慶喜せんおおきに しょもんを きょうきせり

 「往生の勧讃」と呼ばれるご和讃が続きます。親鸞聖人がお勧めくださる「念仏往生」の相(すがた)について讃(ほ)めながら、詳しく述べてくださっているところです。

 まず「十方」とは、東・南・西・北の四方(四方向)に、上下を加えることで六方と呼びますが、さらに四維(東南・西南・西北・東北)を加えて十方と申します。つまりこれはわたし目線で見る「全方向」ということです。

 「諸有」は大ざっぱに申すと、生きとし生けるるものたち、つまり私たち人間に限らず、地獄や餓鬼、畜生、天人まで含む、ありとあらゆる存在です。地上のあらゆる存在、それを「衆生」とよびますが、ほぼ同じ意味と考えて良いでしょう。「あらゆる方向に存在する、生きとし生けるもの・衆生がお念仏を通すとどうなるのか」ということを今回のご和讃はうたいかけます。

 「阿弥陀至徳」とは、阿弥陀さまのことですが、あえて「至徳」と足す事で、これ以上はない、という尊敬の意味を込めます、その素晴らしい阿弥陀の名を聞く事で、衆生は「真実の信心」にいたり、聞くところを大いに喜ぶ(所聞を慶喜する)わけです。

 さてここで少し意味に注目してみたいと思います。阿弥陀さまのお名前を「聞く」とはどういう状態でしょう。

 ふつうなら、誰かが称えているのを耳で聞く、と解釈します。それも正解でしょうが、「自分の口から称え出てくる声」も、つまりは「聞く」ということではないでしょうか。

 よくイヤホンをしている人に話しかけると、不要に大きな声で返事されます。無意識に自分の声が聞こえにくいから、大声になるのですね。音楽をとめるなり、イヤホンを外すなりすれば自分の声は鮮明に聞こえるようになるはずです。そういえば最近のノイズキャンセリングヘッドホンなら「外部音取り込み機能」がついています。この機能をオンにすると、外部音のみならず、自分の声も聞き取りやすくなります。自分の声が聞こえる・聞こえないって結構大事なことなんです。

 実は私たちが人と話すときも、ただ一方的に声を発しているわけではありません。常に自らの声を聞き、確かめているのです。そうして抑揚をつけて感情を人に伝えます。そういえば昔の「声」という字は、「聲」と書き、耳の字が含まれていました。えらいものです。今の字では「言いっぱなし」になりますもの。

 常々申しておりますが、浄土真宗の教えの根本は、法蔵菩薩が衆生の根元の願いを見極められ、修行を完成されたことに極まります。ただし、法蔵菩薩は修行を完成してもそのまますんなり阿弥陀仏になられませんでした。衆生がその口に「法蔵菩薩の修行が終わられた名」、つまり『「南無阿弥陀仏」と呼び掛けてくれるまでは、私は仏にならない』と、ずっと待ち続けてくださっているのです。

 阿弥陀さまの声を聞くという意味には、もちろん他者がえる念仏を聞くことも含まれますが、私たち自身が称えることも含まれているのです。「真実信心」とは私の中から自動的に生まれくるものではありません。虚仮不実な生き方をしている私たちは、法蔵菩薩の真実の願心によって、名を聞くことを通してのみ、まことのこころ(信心)を戴くことができるのです。こちらから至るのではなく、向こうから「至らしてもらう」のです。ここでは「私の発する声」すら、私の力ではないということをも意味します。

 だからこそ、なるほど御和讃のとおり、「聞くところを慶喜(所聞を慶喜)」するわけです。

翫湖堂・2016年05月号所収・一部web用に編集)