和讃にきく 第25

第25回・こえをきく2〜往生の勧讃

私の生まれる前から、心臓は動き続けてくれていますね。私が私になる前からDNAは働き続けてくれています。

今回は、浄土和讃の24です。

 若不生者のちかいゆえにゃくふしょうじゃの ちかいゆえ

   信楽まことにときいたりしんぎょうまことに ときいたり

   一念慶喜するひとはいちねんきょうき するひとは

   往生かならずさだまりぬおうじょうかならず さだまりぬ

 「往生の勧讃」と呼ばれるご和讃の最後となります。親鸞聖人がお勧めくださる「念仏往生」の相について詳しく述べてくださっているところです。若不生者の「若」とは「もしも」という意味です。続く「不生者」とは、「生まれることができなければ」という意味です。どこに生まれることができないかというと、「お浄土」です。これは仏説無量寿経に出てくるフレーズなのです。今回のご和讃はそういう法蔵菩薩(阿弥陀さま)の「ちかい」を根拠に展開します。

 いつも申しておりますが、この誓いとは、阿弥陀の四十八願の中でも特に第十八番目の願、つまり法蔵菩薩が「我が名(南無阿弥陀仏)」を称えた者を例外なく浄土に迎え取るという誓い」をさします。もし万が一にも浄土に生まれることができない人があるなら…法蔵菩薩は「仏になることを辞める」と仰います。それは菩薩さま自らの全存在を懸けた願いなのです。

 親鸞聖人はそのことを受け「一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ」と仰います。これはひとことで言えば「見えないはたらきに気付けるか・気付けないか(よろこべるか・よろこべないか)」ということだと思います。

 現代人は特にそうですが、人間は昔から「目に見えるもの・わかりやすいこと」を信じて生きてきました。それはあながち間違いではないのですが、ただ、ものの見方がとても狭くなりがちです。

 たとえるなら、現代においてDNAという言葉を知らない人はまずいません。最先端の遺伝学でははDNAはもはや基礎知識となりつつあります。しかし実はこのDNA、発見されてからまだ150年と経っておらず、その存在が遺伝に影響があると認められてからは70年ほどしか経っていないのです。ではそれまでの数千年、知られていなかったからといって、ヒトの世界に遺伝という作用は存在しなかったでしょうか。そんなことはありませんね。見えなくても機能している事実は他にも多くの分野で明らかになりつつあります。例えばダークマターであるとか量子力学であるとか。

 さて、こんなお話があります。かつて自殺しようと決意した女性が、死ぬ前にせめてと髪をとかし、身なりを整えましたところ、どうしても死ねなかったそうです。数日後、やはり死のうと心に決め、同様に髪をとかしはじめた時のこと、爪に髪が絡まったそうです。つまり日が経ち、爪が伸びたのです。そのとき女性は「私は死のう死のうとしているのに、身体は生きよう生きようとしてくれている」ということに気付かれたと言います。

 また、こんなお話もあります。ある先生が、PTAの講演会で「私たちは自力で生きているように思っているが、事実は他力によって生かされているのですよ」という話をされたところ、30歳ぐらいの方が「他力で生かされていることを証明してください」とおっしゃったそうです。先生はすかさず「証明しましょう」とおっしゃり、「みなさん、私が時計を見ていますから、今から1分間目を閉じて、胸に手を当てて静かにしていてください」と続けました。1分後「はい、目を開けてください。他力が分かりましたか」と先生皆は「わかりません」と答えます。そこで先生は「それではもう一度お願いします」とさらに1分。「わかりましたか」「わかりません」「手を当てた胸の中で何か動いてませんでしたか」「心臓が動いてました」「そうでしょう。それではもう一度。今度は1分間その心臓を止めてみてください」… 止められるはずがありませんよね。みんなキョトンとしていましたが、そのうち笑い出したそうです。

 「見えないはたらきに気付く」とはこういうことではないでしょうか。本願とか法蔵菩薩というと「ただの物語だ」とうそぶく人がいます。しかし、そのはたらきに気付く事が出来た人にとっては、「一念慶喜」するほどの真実との出遇いが起こり、必ず「往生定まる身」をいただくのです。

 それは苦しみ悲しみを抱えつつも、この世を生きぬくための原動力となります。だからこそ「信楽まこと」・念仏の信心こそが真実であるとうたわれたのです。

翫湖堂・2016年06月号所収・一部web用に編集)