和讃にきく 第26

第26回・居場所とわたし教主の勧讃

私たちの日々の営みが世の中を作り上げるように、浄土もまた私たちの「南無阿弥陀仏」によって完成してくださるのです。ずっと待ち続けておられますよ。

今回は、浄土和讃の25です。

 安楽仏土の依正は あんらくぶつどの えしょうは

   法蔵願力のなせるなり ほうぞうがんりきの なせるなり

   天上天下にたぐいなし てんじょうてんげに たぐいなし

   大心力を帰命せよだいしんりきを きみょうせよ

 ここからは「教主の勧讃」と呼ばれるご和讃に入ります。教主とはお釈迦さま(釈尊)のことです。お釈迦様がお勧めになられた南無阿弥陀仏の教えを聞き開いてゆきます。

 さて、「安楽仏土」とは、本当に安んじて住むことができる、仏=阿弥陀仏がお建てになった居場所、ということで「お浄土」のことです。

 「依正」という言葉がでてきました。これは正式には「依正二報(えしょうにほう)」という言葉で、「依報」と「正報」の二つの相をいいます。少し専門的になりますが、お付き合いください。

 まず、依報と正報とは、「国土(場所)」と「私(身体を持つもの)」を指します。

 たとえばちょうど今、ニュースを見ると原発問題や安保関連法案で世の中が揺れています(2016/7寺報 執筆当時)。これは依報(国土)の相です。この問題は私とかけ離れてはいません。なぜならまず、望む望まざるにかかわらず、これまで原発の電気を使ってきた責任があります。また周辺国と摩擦が起これば、どこか自国寄りの考えを持ってしまいがちです。さらにひごろ、対話の重要性をいいつつ、実は考えの合わない人を排除していませんか。これが正報(私自身)だからです。「正」という字を使いますが、私が正しいとか勘違いしないようにしてください。まさしくという意味で読んでいただくといいでしょう。つまり依と正(居場所とワタシ)はこれまでまさしく相互の依存・ありかたによってできあがってきたのだ、と仏法は教えてくださるのです。気に入らない現実社会も、顧みればあなただってその構築に加担しているのですよ、ということです。

 またさらに、「依正二報」という言葉には、私たち衆生のことを指す場合と、お浄土の相を指す場合とがあります。 さしずめ、上の例は衆生の場合です。

 ではお浄土を指す場合の依報と正報はと言いますと、「お浄土(場所)」とその「住人(お浄土に生まれるもの)」ということになります。浄土はそもそも阿弥陀仏が開かれた国土です。ただし依と正は切っても切り離せないわけですから、浄土が開かれるには住人の誕生がとても大切な意味を持ちます。浄土が勝手に存在していても、生まれる人がいなければそれは浄土といえないからです。

 では浄土の住人はどうやって生まれるのでしょう。

 それが「法蔵願力」です。常々申しますように、法蔵菩薩の願いは、我々衆生が「合掌し、口に念仏を称える」ということでしたね。衆生が「南無阿弥陀仏」と法蔵菩薩の御名(念仏)を称え、それが縁となって法蔵菩薩(因の位・もとのすがた)は阿弥陀仏(果の位・願いが成就されたすがた)となられます。その同時に浄土が開かれ、念仏者は浄土の住人として迎えられる…南無阿弥陀仏の構図はこのようになります。

 すべては繫がっているのでした。これはさらに続きます。浄土に生まれる行人(念仏者)の姿は次の念仏者を生みます。本人は気づいていないんですが、「おじいちゃん・おばあちゃんお内仏によくお参りされとったなぁ」 とか、「お父さん・お母さん、よくお念仏されとったなぁ」という形で、次の念仏者を生むのです。それだけではありません「あの人は生前、怒ってばっかおられたなぁ」とか「意地悪ばっかされたわ」という形であっても、後に続くかたをお念仏に導く場合があります。これもまた、あらゆる衆生を救おうとされる法蔵菩薩の願いのカタチということです。念仏者が次の念仏者を生む、そのことによって阿弥陀国土が維持されてゆく…無限ループのような構図ですね。

 こうして依と正の相は、現実世界と浄土世界の2種類あると見ることができます。いずれも国土と住人の関係は繋がっています。「よくもわるくも」ということです。「浄土真実」によれば念仏行者を生むループとして、「現世衆生」によれば環境問題や人との関わりのループとして。

 そしてさらにここは仏教の本領発揮ですが、この現世では誰もそのよしあしがわかりません。「現実」によって自分の都合でしか物事を考えられない私たちは、「事実関係」すら見えません。そんな「真実」がわからない凡夫・衆生にとっては、いったいどちらの方向が、何事が正しいのかわからないのです。全て「苦しみ・悲しみ」でしかないではありませんか、と仏教は問いかけるのです。

 仏説無量寿経によると、法蔵菩薩はその衆生の苦しみ・悲しみを見抜かれ、五劫思惟の修行に入られました。そして四十八の願いをたて、「あなた方の国土における苦しみ悲しみを超えるには、浄土の真実に遇う、つまり名号を称えるしかない」と見定められ、あとは皆さんが口に「南無阿弥陀仏」と称えられるのを、ずっと(十劫の間)、待ち続けておられます。

 冒頭に申し上げましたとおり、今回の御和讃は「往生の勧讃」でした。まさに苦難の世を生きる私たちはいまの国土や自分を鵜呑みにせず、頼りにせずあらねばならないわけです。さらにはその環境を作っているのは、これまた私なのだという自覚と反省に立たねばなりません。その私が本当の意味で救われてゆくのは、法蔵の願力にかなう念仏往生しかないのだよ、と、親鸞聖人は御和讃を通して勧め讃えて下さるのです。

 個々の思いではなく、法蔵菩薩が開かれた一道(大心力)にめざめることが、私たちに開かれた「待ったなしの人生の一大事」なのですね。

翫湖堂・2016年07月号所収・一部web用に編集)