和讃にきく 第27

第27回・おふたりのみこと〜教主の勧讃

「二河白道」の喩えは、人間が宗教心にであった時の正直な気持ちがはっきり描かれてあります。真実に出遇うと、私たちは喜ぶどころか躊躇するのです。今までどおり感情に任せて楽に過ごしておればよかった、と。真実信心は「ありがた信仰」とは違うのだということを教えてくれます。機会があればぜひ原文をご一読いただきたいものです。

今回は、浄土和讃の26です。

 安楽國土の荘厳はあんらくこくどの しょうごんは

  釈迦無碍のみことにてしゃかむげの みことにて)

  とくともつきじとのべたまふ (とくともつきじと のべたまふ)

  無稱仏を帰命せよ むしょうぶつを きみょうせよ)

 「教主の勧讃」の2首目にあたります。教主とはお釈迦さまのことでしたね。

 さて、前回のお話では阿弥陀さまの浄土であれ、人間の穢土であれ、その国土のなりたちが「依正二報」、つまりその国土と国土の住人の関係性が不可欠であることをお話ししました。

 今回は、その国土がどのようにできあがっているのか、「荘厳(しょうごん)・なりたち」されているのかについて聞いてまいります。

 浄土真宗の根幹をなす思想の一つに「二尊教(にそんぎょう)」という考え方があります。南無阿弥陀仏の構造には二尊が不可欠ということです。その一尊が言わずとしれた阿弥陀さまです。もう一尊はと言いますと仏教を開いてくださったお釈迦さまです。阿弥陀さまを真実の側の「救主(きゅうしゅ=すくいぬし)」、お釈迦さまを衆生の側の「教主(きょうしゅ=おしえぬし)」とよび、この二尊を敬い、大切にするという受けとめです。

 なぜそうなるのでしょうか。それは今までも幾度も申してきたとおり、「真実は人間には表現できない」からです。そもそも触れることすら叶いません。

 人間が触れられるのは現実のみ、せいぜい進歩しても事実まで。何度も申してまいりました。普段は「事実」すら見えていないのです。たとえば「雨が降る」とか「今日は暑い」は「事実」ですが、私たちはそこに「都合がよい・わるい」と自分の思いを必ず混ぜます。これを「現実」と言います。自己都合が中心、人間の認識力なんてこの程度なのです。事実をありのままに見られないのが私たちです。その先にある奥深い真実が見えようはずがありません。

 世間を見渡しますと、真実触れもできないくせに、あたかも「我こそが真実」と主張・論争し、他者を傷つけて生きています。中には「私は釈尊の生まれ変わり」などと、もはや真実に対する冒涜としか思えない主張をする愚かしく可哀相な人もいるほどです。そんな嘘偽りの情報が溢れ、もはや何が真実なのか、わかりにくくなってしまっているのが現代です。これもよく耳にすることですが、今は簡単に「真実を明らかに」などとアナウンサーが語ります。哲学がないのです。昔はアナウンサーでも「事実関係を明らかに」とおっしゃいました。「真実」を口にすることに対して謙虚な方が多かったのです。それだけ哲学的背景をお持ちだったのだろうと思います。

 ではなぜお釈迦さまは人間なのに衆生の側によって真実を語ることができるのか、と言いますと、それこそが「仏陀(覚者)」であるからです。お覚りによって真実(本願)に出遇われ、さらにそれを表現できる「智慧」を身につけられたからなのです。なので「教主世尊」と呼びそなわします。これも以前に申し上げましたが、私たち人間の「知恵」如きとは深みが違うのです。

 お浄土の荘厳は、救主である阿弥陀さま(法蔵菩薩)によってかたち作られておりますが、そのことを知るには、教主であるお釈迦さまの言葉、すなわちお経に依るしかありません。これは大変有名な「二河白道」と呼ばれる善導大師の譬喩に示されます。

 「二河白道」を丁寧にお話ししますと、とても長くなりますので、乱暴かもしれませんが極めて簡単に申します。

【私たちが宗教的関心に目覚めると(旅人が西に向かうと)、それまで意識していなかった欲望の深さに気づきます(火の河と水の河)。そして孤独であるということ、そしてこれまでの無自覚な生活には戻れないこと、さらには真実に触れるのがいかに難しいかを思い知らされ、絶望します。しかし、その時にこそ釈尊の言葉が響き、「ゆけ」と後押ししてくれるのです。さらには真実の側からは阿弥陀さまが「来い」と招いてくださります。目の前には頼りない白道が一本あるのみ。でも旅人は二尊の言葉を信じて、頼りない一歩を踏み出すのでした。

 これが二河白道の概要です。この時、釈尊と阿弥陀さま、両者の間にいるのは私のみです。それ以外に不完全な人間を入れてはいけないのです。教えに「人間」が入り込むと、それはカルト宗教の構造ともなり得ます。よって浄土真宗では【人間が介入するであろうあらゆる恣意的な要素を排除して、お経に説かれた法蔵菩薩の誓い・願いである「南無阿弥陀仏〝のみ」を戴くのです。

 これらをふまえて今回のご和讃を味わうならば、「お浄土の荘厳は、(人間の身のままにしてお覚りを開かれ、無碍・すなわち人の心のとらわれから解放された)釈尊のお言葉をもってしても語り尽くせないほどです。不完全な人間の言葉では尽くしきれないほど尊い、阿弥陀のお荘厳(無稱仏)に対して、我々が尽くせることは、ただただ、法蔵菩薩のご本願のままに、手を合わせ念仏を申すしかありません」ということになりましょう。

翫湖堂・2016年08月号所収・web用に再編集