和讃にきく 第28

第28回・過去・未来・いま〜教主の勧讃

私は今の私だけを生きているわけではありません。過去がなければ私は存在せず、また私の痕跡は私の肉体が滅びた後にも何らかの形で必ず残ってゆきます。

今を生きているということはそういう時間軸を生きているということでもあります。

今回は、浄土和讃の27です。

 已今當の往生はいこんとうの おうじょうは

  この土の衆生のみならずこのどの しゅじょう のみならず

  十方仏土よりきたるじっぽうぶつど より きたる

  無量無数不可計なり (むりょうむしゅ ふかけなり

 「教主の勧讃」の3首目になります。教主(きょうしゅ=おしえぬし)とは、お釈迦様のことでした。お釈迦様がお勧めになる、我々衆生の救いについて、親鸞聖人が詳しく述べておられるご和讃ということになります。

 さて、「已今當(已今当)」とは聞きなれない言葉ですね。お経の中ではよく使われるのですが、これは「過去・現在・未来」という3つの時間を表します。例えば『仏説阿弥陀経』には「已発願・今発願・當発願」という言葉が出てきます。これは「()すでにお浄土に参りたいと願いを立てた人・()今、まさにその願いを立てようとしている人・()未来においておそらくその願いを立ててくださるであろう人」を指します。また、同じ『仏説阿弥陀経』にはこういう表現もあります「若已生・若今生・若當生」やはり已今當の並びです。これは「すでに浄土に生まれた人・今生まれようとしている人・未来において生まれるであろう人」ということです。お経では比較的ポピュラーな表現です。

 さて、今回の御和讃で宗祖は何をお伝えになられようとしているかと言いますと已今當の往生、つまり「お念仏にすでに出遇った方、今まさに出遇う方、そして未来において出遇うであろう方」ということです。つまりは「今はもちろんのこと、過去から未来までのあらゆる存在」を意味します。だから「この土の衆生のみならず」と続きます。

 阿弥陀さまの救いは、今お念仏をしている人だけに向けられているのではありません。時にはそっぽを向いている人、お念仏なんて役に立つものかと批判精神むき出しの方にも等しく届けられているのです。なぜなら、人生のどのタイミングでお念仏に遇うことができるかこそ、私たちが「人として」生まれてきた最大の課題であるからです。私たちは阿弥陀さまから「十方諸仏のはたらきの中に包まれた存在」として、逆に向こうから先立って手を合わされているのです。

 さて、吉川英治さんの小説・宮本武蔵に「我以外皆我が師」という有名な言葉があります。同じような意味でこういう言葉を教えていただいたことがあります。「聞法することは、周囲の人が拝める手を頂くことだ」と。「信心の智慧」の内実をよく表している言葉でしょう。この言葉の背景には、「私の周りの好き・嫌いどの方も全て、私がお念仏に出遇うためのご縁の存在であった」という受けとめが込められているからです。

 たとえどれほど私を傷つけるようなことをする人・いう人・感じさせる人であっても、それは「無量無数にして」「数え切れない(不可計)」「念仏への尊いご縁」である、と、宗祖は御和讃をとおして手を合わされます。

 いっぽう、私たちの現実はといえば、関係性の存在でありながら、それを煩わしく感じて生きています。そして互いに切ったり切られたり…だからいま、全ての関係性に手を合わせる念仏の教えに遇うことが大切なのではないでしょうか。

 お念仏のキッカケ、お念仏の師は「十方仏土」つまり、東西南北に北東・北西・南東・南西の八方に上下を加えた全方位から「きたる」わけです。まさに周囲の人です。その周囲の人は「仏土」から来られたのです。そんなふうに拝める手はあなたにありますか?これは釈尊の教え・南無阿弥陀仏の教えにあわない限り起こり得ない、大変革なのです。

 (意訳)過去・現在、そして未来でお念仏に出会う(全て)の人を救いたいと願う阿弥陀如来の眼差しは、この世の衆生のみならず、十方から来たりくるあらゆる数え切れない人(ご縁)に向けられているのです。また私も、お念仏に遇えたた暁には、全ての周りの方がそのようにいただけるようになるのですよ。

翫湖堂・2016年09月号所収・web用に再編集)