和讃にきく 第29

第29回・わたしたちがきくということ〜教主の勧讃

南無阿弥陀仏が聞こえる、ということに宗祖親鸞聖人は深い哲学的な意味を見出されました。

私たちは何気なく当たり前のようにしていますが、それは私たちがあまりにも何も考えていないということです。経典の言葉を端から端まで読み解かれた聖人は、何気ないように見える「念仏」に無限の意味を発見くださったのです。

今回は、浄土和讃の28です。

 阿弥陀仏の御名をききあみだぶつの みなをきき

  歓喜讃仰せしむればかんぎさんごう せしむれば

  功徳の宝を具足してくどくのほうを ぐそくして

  一念大利無上なり いちねんだいり むじょうなり)

 「教主の勧讃」と呼ばれる4首目に当たります。教主とは…もういいですね。今回の御和讃でお釈迦様は一体何を私たちにお勧め(勧讃)くださるのでしょう。

 それはほかでもなく、「阿弥陀仏の御名を〝きく」ということです。阿弥陀仏の名をきくことができれば「歓喜(よろこび)」も、「讃仰(ほめたてまつり)」も、ついて来るでしょう。そしてこれ以上ない功徳の宝(人生全体の救い)が具足(身にそなわること)することでしょう。とおっしゃるのです。

 ここで注意していただきたいのが、「きくという行為の中身」です。まあきけ、と言われれば通常、黙って静かに耳をすませて、周辺の音に注意を払いますね。でもここでの「きく」はそういう意味に留まりません。それが最後の句に謳われてあります。

 何が違うかというと「一念」です。ここでの一念は一般的に想像しがちな「何かに手を合わせて念ずる」という対象や方向性を持ったものではなく、私たちが素直に手を合わせて念仏を申している姿そのものです。

 「南無阿弥陀仏」と、私たちが一声「称える」ときに何が起きているかというと、まず、傍目には「なんか拝んでるんかな」という姿になっています。そういう意味では対象はなくても姿として「完成」している訳です。さらに、横に誰もいなくても、誰の助けも借りずに阿弥陀仏の御名を「きく」ことができますね。誰かに言ってもらう必要はありません。むろん、誰かに聞かせてやろうと、ことさらわざとらしく、人目に見えて、遠くまで届くよう大声で称える必要もありません。

 『仏説無量寿経にこういう一節があります。お釈迦様が阿難尊者に対し『お浄土におられる菩薩様の中でも、阿弥陀様の脇侍と呼ばれる「観音菩薩」「勢至菩薩」がその身から放たれる光は限りなくどこまでも届く。そのほかの菩薩の光は半径700〜800キロメートルにも及ぶ、と。それ以外にも阿弥陀仏の名を聞いて喜ぶ人がいて、その者たちの身の光は「身光一尋」、ちょうど両手を広げたほど(取意・及び説明のため原点とは順番を変えてあります)』と仰るのです。

 名(南無阿弥陀仏)を聞いて喜ぶ人は念仏者のことなのです。両手を広げた程度・つま理、私の耳に聞こえる程度で良いから、ひと声「南無阿弥陀仏」と称え、自分の声ながら発声されたその声を「聞く」。それで、お浄土は完成する(大利無上なり)のだよ、とお釈迦様はお勧めになり、親鸞聖人はこの御和讃を通してそれをお伝えくださるのです。なんだか、ややこしいですか?

 しつこく書きましたが、あなたが「南無阿弥陀仏と申すことそのまま」が、すなわち「よぶ」ことも「きく」ことも、そして「浄土を建立していただく」ことまで成就している、と申し上げたいのです。

 もう少し深めましょうか。この南無阿弥陀仏の声、確かに私の口から出ているのですが、もっと深く捉えるならば、実は「私が称えたのではありません」。なぜなら、そもそこの私はオギャーと生まれて以来、どうやって「南無阿弥陀仏」を知ったのでしょう?どうやってその発音ができるようになったのですか?またどうやってそのことに何か意味があるように思えたりしたのでしょう。…全ては「生まれて以来、私に対して誰かが伝えて下さった・私に伝えられたのです」。先に「誰の助けも借りず」と書きましたが、本当の意味ではそうではありません。

 私という存在に先立って、すでに南無阿弥陀仏はあったのです。ようやく南無阿弥陀仏に追いついた私に、すでに十劫という長い時間をかけて待ち続けてくださっていた「法蔵菩薩の願心」が、そして人類の歴史が、私の身体を通し、口から「南無阿弥陀仏」となってほとばしり出てくださったのです。ゆえに親鸞聖人は、念仏こそが歓喜・讃仰・功徳・具足・大利・無上と言葉を尽くしてお勧めくださるのでした。

 ただ私の身体やそれを支える寿(いのち)は、南無阿弥陀仏に追いついたのですが、称えている私の中身は一向に追いついてないんですよね。だから南無阿弥陀仏が頼りなかったり、役に立つんかい、とか、こんなもの、とか思ったりするわけです。

翫湖堂・2016年10月号所収・web用に再編集)