和讃にきく 第30

30回・私に聞こえくるお念仏〜教主の勧讃

たとえ世界中が火に焼かれ、火わらとなってしまっても、仏の名を耳にする人は、やがて必ずその救いに遇って行くのです。

今回は、浄土和讃の29です。

 たとい大千世界にたとい だいせんせかいに

  みてらん火をもすぎゆきてみてらんひをも すぎゆきて

  仏の御名をきくひとはぶつのみなを きくひとは

  ながく不退にかなうなりながくふたいに かなうなり)

 「教主の勧讃」と呼ばれる一連のご和讃の最後の一首にあたります。

 「大千世界」とは、「三千大千世界」と表現される仏教の世界観です。それは過去・未来・現在、全ての時間と空間において「あらゆる」ということです。そのあらゆる世界には、それこそ数えきれないほどのさまざまな苦しみが充満しており、それを「火」とあらわします(こう書くと、全く仏教とは苦しみ苦しみとうるさいわと思われるかもしれません。もちろん、喜びも同時に満ちてはいるのですが、ただその喜びは仏教の世界観からすると「目先」の喜びに過ぎません。また苦しみで覆い隠されてしまうと。だから苦しみを越える道を指し示そうと、苦しみを説くわけです)。

 この御和讃に関して、お釈迦さまが『仏説無量寿経』と言うお経の中で、弥勒菩薩に仰るシーンがあります。そこでは、「たとえあらゆる世界が火の海になってしまっても、ひるまずにこの教えを聞き、心に喜びをもって進め(取意)」とおっしゃるのです。これは五十六億七千万年もの未来にさとりを開くとされた弥勒菩薩に対する、釈尊の励ましでもあり、弥勒のさとりへの約束でもあります。ここは大無量寿経を締めくくる大切なシーンです。親鸞聖人もこの情景をご和讃にされたかったのでしょう。

 さて、今回注目いただきたいのは、仏の御名(お念仏)が「称える」ではなく「聞く」と表現されていることです。

 私たちの理解は「私が・自発的に」お念仏を称えることによって、不退、すなわちお浄土に向かう仲間(正定聚)になるんだ、と考えがちです。それはもちろん大切なのですが、ここではさらに「称える前の段階」に注目し、表現しています。前回の解説でもここをしつこく書いたつもりです。

 例えば私たちが口に言葉を発する時、ほんのわずかですが(極めて短い・瞬間の話ですが)、頭の中でその言葉を文字にしたイメージを思い浮かべます。つまりお念仏を申す、ということは、私の口に出る前、言葉として脳裏にお念仏が留まっていないと、そもそも称えることすらできません。英語を話すときがわかりやすいかもしれませんね、慣れない人はまず日本語で言葉を思い浮かべ、そして英語の文法に並べ替え、翻訳して話します。また1週間も英語づけの生活をすると、そのうち不思議と英語で考えて英語で話すように頭の中が切り替わってきます。いずれにしても話す瞬間にその言語を頭に思い浮かべている例です。言葉は言葉として思い浮かばないと話せないのです。

 したがって、念仏を口に称える行為の背景には、私自身の記憶には残っていなくても、生まれてこのかた、人生のどこかでお念仏という言葉に出遇っていた事実があると考えられます。この口から出た念仏は、私に先立って誰かが称えて下さらなければ、知ることも、出遇うことすらなかったのですから。難しいですね。哲学的です。でも仏教って本当は極めて哲学的なんです。

 私が呟くように申した念仏をミクロ的な視点だとして、その背景には、現在の私と、私に先立つ人、そして私に続く人、さらにはずっとインドから繋がってきた念仏の歴史、世界に広がるお念仏全てのマクロ的な視点につながります。

 私に先立って念仏が私に届いていた事実を、本願文では第十七番目(第十七願)に「諸仏があなたに先立って阿弥陀様を褒め称える・そうなるように尽す」と誓われています。念仏の往生を誓う願(第十八願)に先立ってこのことが誓われていることはとても大切な意味があるといえます。

 ところで、このご和讃、二百年前の「天明の大火」と呼ばれる、京都を焼き尽くした大火事のまさにその朝、本山の御影堂の晨朝(おあさじ)で勤められたご和讃なのだよ、と、かつて先輩から教えていただいたことがあります。御和讃は「まわり口」といいまして、和讃本に収められた順番で勤めるもの。「たとえ世界中が火に焼かれ火わらとなってしまっても、仏の名を耳にする人は、やがて必ずその救いに遇って行くのだ」という御和讃がその日の朝に勤められたとすれば、たまたまのこととはいえ、不思議な符合だとは思いませんか。

 天明の大火によって教如上人以来の東本願寺御影堂は灰燼に帰してしまいます。しかし、ここから私たちのご先祖は団結し、その後3度も御影堂が焼けてしまう苦難を乗り越え、今の両堂再建に力を尽くされました。そういった先人の生きざまも、また「私に先立つご縁」です。後を生きる一人として、その歴史に思いを馳せ、謙虚に手を合わせ、いただいてゆかねばならない…と強く感じるのでした。

翫湖堂・2016年11月号所収・web用に再編集)