和讃にきく 第31

第31回・諸仏がほめたたえる道〜十方の往詣①〜

私から選ぶみちは「路」と書き、数多くあって迷うことがあるのですが、阿弥陀さまから差し伸べられたみちは一本「道」で、迷うことがありません。多くの方が私に先立ってその道を歩んでくださいました。

今回は、浄土和讃の30です。

 神力無極の阿弥陀はじんりきむごくの あみだは

  無量の諸仏ほめたまうむりょうのしょぶつ ほめたまう

  東方恒沙の仏国よりとうぼうごうじゃの ぶっこくより)

  無数の菩薩ゆきたまうむしゅのぼさつ ゆきたまう

 今回より「十方の往詣(じっぽうのおうけい)」といわれる御和讃に入ります。

 「神力」とは以前に申し上げたとおり、具体的な神様を指すのではなく、人智を超えた力の象徴です。よって仏さまもそのうちに入ります。なかでもこのご御和讃では、阿弥陀如来が全ての衆生を無条件に救うという類まれなる力を表現しています。

 どこがそんなに「類まれ」なのでしょう。それは【「阿弥陀のみ名」を「口に称えるだけで」「いつでも・どこでも・だれでも」「えらばず・きらわず」人々を救うという誓いを建てられたということに尽きます。

 もちろん阿弥陀仏以外の数多の諸仏も、修行の身(菩薩)から1日でも早く修行を終え、仏となって人々を救いたいとお考えでした。そして修行を終えた諸仏は、いち早く仏となり、国土を建設され、衆生を迎えとろうとされたのです。

 でも、当の衆生はどうかといいますと、自分のほんの少しの身の回り、目の前のことにかかりきりで仏を拝もうともしません。それが結局日常に苦しむこととなり、相手を妬み、怒り、言葉で人を切りつけているにもかかわらず、です。多くの諸仏も心を痛めていたのです。

 そんな中、法蔵菩薩がただひとり、「私が仏になったときの名前を称えておくれ」「名を称えてくれることで、私は仏になり、称えた方を必ず救う」と誓われたのでした。さらに究めつけは「そのようにならなければ私は仏にならない」とも。

 そもそも仏は私たち衆生にとって、ほど遠い存在です。だから崇めて奉ったり、厳しい修行や努力を完遂しないと仏に近寄ることすらできないと考えます。諸仏はこのすれ違いに心を痛めておられたことでしょう。

 ところが法蔵菩薩のお誓いは誰でも、どこでも、簡単に衆生の口に称えられる「南無阿弥陀仏」によって瞬時・同時に完成するという誓いです。崇め遠ざけるどころか、その人の口から仏の名前がでることが目当てなのですから、最も近い関係性です。念仏は仏を完成させ、衆生を救うという仏と衆生の不即不離の関係性の姿です。それまでなかった悟りの姿なのです。これは他の諸仏から見ても画期的なことです。諸仏は驚いたわけですね。だから「ほめたまう」のです。

 さて、ここからがさらに肝心なのですが、それでは阿弥陀仏(法蔵菩薩)のそうした願いをほめたたえた諸仏・諸菩薩とはどこにいるのでしょう、またどなたのことなのでしょう。もちろんそれはお経の中に描かれている諸仏・諸菩薩であることに違いないのですが、それだけにとどまりません。それこそみなさんに先立ち、「みなさんの耳に届くように」念仏をしてくださった方すべてが、「みなさんにとっては」最も身近な諸仏・諸菩薩ではありませんか。

 父母、祖父祖母、兄弟姉妹、もちろん時には我が子にいたるまで、本人自体には自覚がなかったとしても、みなさんが過去に一度でも念仏を称えたことがあるならば、身近にみなさんに念仏をさせたその方々こそが、全世界の中でみなさんに念仏を届ける役割をされたことになる、諸仏・諸菩薩なのです。

 ご和讃の後半にある「東方」とは我々の住む日本のことです。アジアの東の端の島国に届くように、インドから中国、韓国を経て、中には東南アジアを越えて、無数の菩薩(念仏者)が私に先立って念仏を称え、浄土へ向かわれたと和讃では締めくくっています。

 おしまいに「十方の往詣」について。

 曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈(このご和讃の基礎となった偈文)」には「みな往観す」とうたわれます。往観の「往」はゆく、「観」はまみえる、の意味で、念仏者は皆、阿弥陀仏の姿を観(み)ることができる・あうことができるという意味です。念仏は、私の側から差し向ける努力や蓄積ではなくて、法蔵菩薩から私に向けられた一筋の道なのです。私が何か努力しようとすればどれをどのように努力して良いか、迷うことでしょう。たどり着くことができないかもしれません。しかし向こうから届いた念仏の道は、迷うことがありません。念仏に出遇えた誰もが、阿弥陀仏のもとに往(い)き、詣(まい)ることができるのです。だから冒頭に書いたように、今回からの御和讃は「十方の往詣」と呼びます。

翫湖堂・2016年12月号所収・web用に再編集)