人間は念仏において人間になる
住職法話>大和大谷別院寺報>第9回 人間は念仏において人間になる
住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。
人間は念仏において
人間になるのである 〜安田理深〜
あるところで言われたのですが「カエルの合唱みたいに念仏となえておってはアカン、そこに信心を得んとアカンのや」と。私は内心、はぁなるほど…すると、いつになったら念仏を称える資格を得るのやろ。もしかすると一生称えられんなぁ、と思った次第です。
さて、信心とは何でしょう。これは大変難しい問いかけです。なぜなら私が信心を得たと誰が証明できるでしょう。確かに聞法していて「あぁこれが信心か」と感動するようなことはあるでしょう。しかし長い人生、その感動体験をはるかに超える感動がまだこれからあるかもしれません。だいいち感動したってどうせすぐに日常に埋没し、忘れてしまうのが私たちではないでしょうか。
仏教の人間観によれば、人間が「煩悩具足」である以上、実はどこまでめくって見ても煩悩しかないといいます。煩悩を剥がしていったら光輝く「何か」がでてくるかといえば、なにもありません。あたかも「玉ねぎがすべて皮でできている」ように、人間をどんなにひんむいても煩悩しか出てこないのです。そんなお互いがどうして「信心を得た」なんて傲慢な言葉を吐けるのでしょう。そんな愚かな私たちのことを、ずっと救おうと待ってくださる仏さまの智慧すなわち「仏智」を「疑う(仏智疑惑)」という重罪を犯しているのがこうした「信心を得られる」という意識であるように思います。
実は念仏とは大変わかりやすく優れた姿なのです。なぜなら誰が見ても一目でわかる姿ですから。でも信心の問題は大変わかりにくいものなのです。
親鸞聖人は「真実の信心を得た人は必ずお念仏を申すのです。でもお念仏を申すことが必ずしも信心が具わったこととはいえません(取意)」と仰っておられます。
念仏によって自らの信心を問い、自らを存在を考えることが、答えなき人生を歩む私たちの生き様でしう。それは「ただ単に姿かたちが人間である」だけではない、真の人間らしさを求める人生の始まりなのです。
大和大谷別院寺報 2018年8月号掲載分