浄土真宗のお荘厳はすべて「南无阿彌陀佛」のお荘厳なのです。
今回は、浄土和讃の33です。
このご和讃だけが「化土の讃嘆」と呼ばれます。
化土とは真土に対する言葉です。なお、真土とは真実の場所、つまり「お浄土」を指す言葉です。ということは化土は「お浄土ではない世界?」。それを讃嘆(ほめたたえる)?…どういうことでしょう。
実は私たち人間にとって「浄土とは、触れることも・見ることも・感じることもできない」世界だと言われます。なぜならば、私たちは日ごろ物事を正しく、まっすぐ見ることができないからです。たとえば見知らぬ人から親切にされたら素直に受け取れますか…下心があるかもしれない、何か請求されたらどうしよう…逆もそうです。純粋であればあるほど心の「曇り」は実感されるもの。
このように自分の心ひとつ、わたしたちは「まっすぐ」に見られてはいないのです。そんな人々に、さて、浄土をどうやって感じてもらえるか…昔のひとは考えました。
そこで表現されたのが「講堂・道場」です。わかりやすく言えば「お寺の・お内仏のお荘厳」です。特に浄土真宗の荘厳はすべてが南無阿弥陀仏を讃嘆しているのです。荘厳によって仏の智慧を方便(てだて)として間接的に感じさせようとしてくださっているのです。ゆえに真土に対し、「化土」ともうします。
たとえばお寺やお内仏のお荘厳の正面、かならず阿弥陀さまを荘置(しょうち・おかざり)しますね。
阿弥陀仏立像のお姿は今までお伝えしましたように「私たちが法蔵菩薩の願いに応えた瞬間を喜ばれたお姿」・「南無阿弥陀仏」と我々が口に称えた瞬間のお姿です。あのお姿は、どこか遠いところに阿弥陀仏がじっとまします状態ではなく、常に働きづめに働きかけてくださり、それが私たちに届いて声になった瞬間のお姿なのです。
さらに両側には親鸞聖人と蓮如上人が荘(かざ)られますが、いずれも「南無阿弥陀仏」を届けてくださった方々です。両余間も同じです。実は、浄土真宗における荘厳とは、すべて「今、まさに時代を超えてこの私にはたらきかけてくださっている(今現在説法)」のお姿・悠久のお念仏の歴史の表現なのです。
美しい荘厳に会うと、自然と手が合わさります。たとえ南無阿弥陀仏のいわれや、徳を知らなくても、です。京都の東本願寺で手を合わせて「なむあみだぶつ」と称えてみればわかります。言葉が通じないはずの海外旅行者が小声になったり、前を横切らないように気遣ってくださるのです。これはあたりまえのようにみえて、大変不思議な出来事です。荘厳はそこにあるだけで、言葉ではなく、表現として意味を伝えてくださっています。
だからこそ、親鸞聖人は「十方来生きわもなし(みんなもれなく、浄土で出会える)」と表現されました。「禮すべし(南無阿弥陀仏と称えましょう)」とも。
(翫湖堂・2017年6月号所収・web用に再編集)