以前掲載した「これでいいのだ」(バカボンのパパ)が仏教伝道協会さんで取りあげていただきました。
ただ、ざんねんながら、先に掲載していた真広寺のウェブサイトではなく、あとから転載した、住職の勤め先の難波別院の掲示板からでしたが(笑)
今回は、浄土和讃の32です。
「十方の往詣」と呼ばれるご和讃の最後の一首となります。
十方とはあらゆる方向ということです。
まさにあらゆる方向からの出来事すべては「お育て」です。「聞法はぐるりの拝める手をいただくことです 」は、以前にご紹介した言葉ですが、私を取り巻く出来事は、ありていにもうせば、実は嬉しいことも、辛いことも、すべてが等しく「与えられたこと」なのです。それを「苦」とと受けとれば苦ともなりましょうが、仏は「歩み」と捉えることもできるのでは?、と説きます。すべての出来事には理由があり、歩みとして与えられているのだと。そういった仏道を生きる「無量の菩薩衆」があなたのまわりにいるのだと。
元来、菩薩とは「仏になるために修行しておられる存在」を指しますが、私の視点からいただいてみれば、私をぐるりと取り巻く方々、全てがそういった菩薩方なのかもしれません。さしずめ、いつも腹がたつ人は立腹菩薩、悲しませる人は悲泣菩薩、意地悪する人は邪慳菩薩?あるいは瞋恚菩薩?…もちろん本人に自覚はないでしょうけれども。
仏は、毎日のいとなみの全てが仏道に通じるのだと見られます。だから私からすれば一見、仏道から外れているような人も、それは「私の眼差し・見方」にすぎません。もし、私を仏道に向かわしめるための手立て(方便)だったのか、とあらためて受け取れたとき、そこに融通無碍、自由闊達な世界が開かれます。悩み苦しみを避け、逃げながら生きるのではなく、積極的に解釈する。そのとき、悩みは悩みのまま、苦しみは苦しみのまま生きる力に「変えなす」ことができることでしょう。…もちろん実生活では、なかなかにむずかしいことですが。
ただもし視点が変わって、そういう方々を菩薩といただくことができたとき、それこそが阿弥陀仏の「すべてを救う」世界に触れ得た、ということです。こうした不思議の徳を備えた仏のことを、別名「婆伽婆(ばかば)」と呼びます。もっと親しみやすい呼び方もあります。それは「薄伽梵(ばかぼん)」です。いわゆる「バカボン」ですね。有名な赤塚不二夫の漫画のあの「バカボン」と同じ呼び方です。
ふざけているのではありません、
実は赤塚氏は分かっていてこのネーミングを採用したといいます。バカボンはもとサンスクリット語のbhagavatを音写した言葉です。『徳のある者、煩悩をやぶる者、分別のある者、福徳のある者、尊敬を受ける者、栄光ある者…』と、主に「尊敬のニュアンス」を多義的に持つ(あまりにも意味が多いため、あえて翻訳されなかった)言葉です。
身近なところで言いますと、仏説阿弥陀経の冒頭に、如是我聞・一時仏…という始まりがありますが、ここを、かの玄奘三蔵(西遊記で有名ですね・実在の人物です)は、仏説阿弥陀経の異訳・「稱讃浄土佛摂受経」(原典が同じで翻訳のバージョンが違うのです)にて『如是我聞・一時薄伽梵』と翻訳されています。
あらゆる悩み悲しみ、苦しみも喜びも、すべてが「これでいいのだ」と安心して受け止められる道、それがもっとも優れた道、仏道です。私たちの先輩の歩まれた(往詣された)徳本の道、恭敬の道(ぐるりのすべてを敬う生き方)が、私にまで伝わってきたのです。その歴史の深みに思いを馳せたいものです。
(翫湖堂・2017年5月号所収・web用に再編集)