私から選ぶみちは「路」と書き、数多くあって迷うことがあるのですが、阿弥陀さまから差し伸べられたみちは一本「道」で、迷うことがありません。多くの方が私に先立ってその道を歩んでくださいました。
今回は、浄土和讃の31です。
前回より「十方の往詣」といわれる御和讃に入っているわけですが、十方の往詣とはそもそも何かといえば、まず十方とは私を中心に十の方向、すなわち東西南北の四方と、東北東・東南東・西北西・西南西を足した八方向(四方八方)、さらに上下を加えた方向です。つまり、「全方位・ありとあらゆる方向」を指します。そのすべての方向に居る菩薩方が往生されてゆくことを「往詣」と呼びます。
今回のご和讃では「九方」とあります。これは十方にひとつ足りない数です。どういうことかといえば、浄土のある西を除く、残り九方向のことですね。西方浄土を完成された阿弥陀様以外の諸仏にも国土(仏国)があります。ただその国土ではどうあっても救いきれない衆生がありました。その方々をどうしてあげるべきかを諸仏菩薩は常々心配されておられたのです。
諸仏に超えすぐれて、西方のお浄土を示してくださったのは「法蔵菩薩」です。なんといっても「名を称えるだけ」を救いとされたのですから。
そして、他の九方向にもさまざまな諸仏・菩薩衆がおられますが、どの諸仏菩薩も最終的にはみな、法蔵菩薩のお導きによってまことの浄土に救われて行かれるのだと。そのことを釈迦牟尼如来(お釈迦さま)は仏説無量壽経の中で偈(うた)にされ、阿弥陀仏の無量の功徳をほめたたえておられます。これが、今回のご和讃の意味するところです。
さて、はっきり申せば「それがどうしたんや」と思われる方もあるでしょう。「その話が自分の日頃の苦しい人生と、どう関わりがあるのか」と仰る方もあるかもしれません。ごもっともです。私(住職)自身もそう思っていた一人ですから。
でも少し冷静に考えてみましょうか。これは物語です。物語というのは最近は哲学用語でもナラティブと言いまして、単なる架空の話という扱いにとどまらず、むしろ言葉で表現しきれないほど奥深い、微細な世界を理解させるものとして、とても大切に位置付けられます。
例えば今回の物語では、阿弥陀さまが「必ず救う」と仰るわけです。その「救う」とは衆生にとってはどういう状態でしょう。お金が満ち足りることですか。当面の生活が思いどおりに行くことですか。それとも家族共々に思いが通いあうことですか。会社で名誉・名声を得ることでしょうか。また、仮にそれが満たされたとして、その人の人生はそこで終わるでしょうか。まだ続くかも知れませんよ。では救われるとはなんなのでしょう。いつまでも死なない永遠のいのちでしょうか。…さてさて、実は私たち衆生は「救われる」ということがよくわかっていないのです。困ったことに。ただただ「目先の自分の思いが満たされることだけ」をあたかも「救い」であるように生きているのです。たとえるなら、どこがゴールかわからないマラソンで「あの電柱まで、あの交差点まで」とただ走り続けているだけ、ともいえましょう。
「菩薩が救われる」とは、そういう目先のことではありません。とてつもなく広く、長い視野を表します。自分だけが救われる存在を菩薩とは呼びません。菩薩は他者を救うことが唯一の願いです。自分はどうなっても構わない、そういう姿が本来の菩薩です。その菩薩が救われるということは、菩薩が常に気にかけている存在、つまり「救いが何かすらわからない衆生」がともかく私の思い描くような価値観ではなく、それを越えて、救われたということなのです。物語はそのためにあります。
「自分自身の救い」が何かすら、わからなくて苦しんでいる、ご都合主義のかたまりであるこの私たちも、仏教の教えをいただくことで「救いが何か」ということを考え、いずれは気付かされるのです。法蔵菩薩の本願は、言い換えれば釈尊の積年の苦しみ、菩薩の悩みに応えるものであったわけです。
(翫湖堂・2017年1月号所収・web用に再編集)