煩悩もまた、そのまま「私自身」であるのです。
だからといって、その煩悩を当たり前にしたり誇ったり驕ったりしてはいけません。
やはり、煩悩はコントロールできるに越したことはないのですから。
今回は、浄土和讃の38です。
「真土の讃嘆」、「別讃」の2です。お浄土がどれほどよいところかを謳いあげてくださる御和讃です。
今回はお浄土の光景を表しています。意味としては「7つの宝を宿した木々の林は、お浄土全体に及びます。そしてその光は互いに輝きあっていて、打ち消し合うことがない。木々の華や果実、枝葉もすべて同じように輝き合っていて、お互いの光が混ざって濁ることはないのだ。そういう本願の功徳を身に受けた『聚(なかま)』がたの姿に手をあわせなさい。」と。
さて、この光景を聞かされてどうおもいますか。
前回も含め、お浄土の素晴らしさを謳う御和讃は実に8首にも及びます。読む人によれば「行ったこともない・行けるかどうかわからないお浄土を讃(ほ)められたところで、有難くもなんともない」と思われるかもしれません。
実はそれこそが、私たちの人生の課題でもあるわけです。
歎異抄(第9章)で親鸞聖人が次のようにおっしゃいます「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。」
【取意】(生まれる前から、生まれたのちも、そして死んでからもおそらく苦悩し続けるであろう私たち。その苦悩の娑婆がなぜか恋しくて、見たこともないお浄土なぞ、恋しいとすら思わない。これこそ、私たちが毎日毎日、煩悩を盛んに生きている証拠。しかし、どれほど娑婆が名残り惜しくおもっていても、今生きている縁がどこか一つでも尽きれば、私がどれほど「まだまだ生きたい」と力んでいようとも(さらに浄土を全く知らなくても)、(阿弥陀様の本願のおはたらきによって)お浄土に参らせてもらえるものなのだよ。「急いで行きたくもないわい」と思える気持ちが強い者ほど、実は阿弥陀様は特別なあわれみをかけてくださっています)
そして、「踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と付け足されます。
【取意】「(逆に素直すぎて、行ったこともないお浄土を)“ああ、お念仏ひとつでお浄土に行けるなんてありがたい、嬉しくて仕方がない、早くお浄土に生きたいなぁ”、なんて軽々しく言える人は、ひょっとすると人間が生きるために必須の、煩悩を持っていないんじゃないか(つまり人間として生きていないんじゃないか・大丈夫かこの人?)と、怪しく思えてくるものだ」
親鸞聖人って本当に人間をしっかりと仏教の眼差しで見つめた人だったんです。だから、煩悩があるから仏教に興味が持てないことも十分承知しておられるし、逆に仏教に興味があります!って真顔で言える人のことは、…あんた、大丈夫?煩悩もってる?とも心配してくださっているんです。
煩悩って捨てたり消したりしないとダメなもの、って一般的な仏教に慣れた方はそういう先入観をもってはいませんか?本来、煩悩って、種類によっては自分を生かすために・守るために働いていたりもするものです。だから煩悩を遠ざけたら私が私でなくなってしまうことも。よって遠ざけるのではなく「煩悩を見つめて生きる・煩悩を相対化して理解する」ことの方がよっぽど重要なのです。
こうやって和讃によってお浄土に触れ続けたり、「ありがたくもない」と思っていることに気づいたりすることも、煩悩たっぷりの私たちにとっては大切なことなのです。それこそが、お浄土に触れ得ることすらできない娑婆世界を生きる私たち仲間(聚)のできうる日常生活なのですから。(逆説的にこれが本願の功徳かもしれませんね、だから本願功徳聚、って2重の意味があるのかもしれません)。
(翫湖堂・2018年10月号所収・web用に再編集)