生まれてこのかた、人間の世界しか知らない私たちです。人間の世界が全てだと思って生きています。でももしかすると、人間の世界なんてほんのわずかなの現象にすぎなくて、もっと、もっと、大きなものに包まれ、見守られている…それが本来の世界の実相だとしたらどう思いますか?
もちろんその確証は実生活から得られないのですが。
ただ、多くの哲学者・多くの宗教学者はそのことを暗示しています。
今回は、浄土和讃の37です。
「真土の讃嘆」、ここから別讃とよばれる箇所に入ります。
真土とは「お浄土の真のお姿」と理解ください。
では、通常、私たちが思い描くお浄土とはどんなところでしょう。たとえばいつでも温泉が湧き出し、美味しいものがあって、お酒も飲み放題?…これじゃなんだか温泉旅館のようですね(笑)。あるところで読んだ物語ですが、その主人公は極楽に行って文句を言うそうです。「ここじゃテレビもねぇしよぅ、毎日が平和すぎて退屈だよぅ、ちったぁ災害や事故でも起きてくんねぇかな」。
もしかすると私たちの本音はここにあるのかもしれません。
平和であってなにもなければ、実は退屈するのが人間の本性です。その証拠に災害や事故のニュースがあると執拗にそのことを調べます。裏返せば熱中しているのです。これがゴシップや不正ならどうでしょう。徹底的に暴こうとします。
しかし暴かれる側はどうでしょう。意図して罪を犯したというならまだしも、もしかするとその事実は意図していなかった過失かもしれません。それは全てが明るみにでるまでわかりません。だのに私たちはともすると、当事者でもないのに必要以上に騒ぎ立て、相手を再起不能にするまで調べあげたがります。これは大義名分を傘に着て、不謹慎な娯楽を楽しんでいる姿のように見えてなりません。
私たちは日々苦しみ多き生活を送っています。その苦しみはどこからくるのでしょう。邪魔で腹がたつ人、思いどおりにならない事柄、…もしかすると、実はどれも自分の中から生み出していることばかりではないでしょうか。他者を排除し、自らを正義としてふりかざす…お浄土はこんなところには決して存在し得ないのです。
今回のご和讃は「お浄土には宝樹でできた林があって、宝がこすれあう度にえもいわれぬ(微妙な)音を立てている」と説きます。それは実に調和がとれた、清浄にして美しい音楽(伎楽…そのいとなみも音楽と調和した演劇のような世界)なのだ。と。
いっぽう、私たちの日常は、排除と恨み合いの騒音だらけ。
ただふと、それではいけない、苦しみから脱し、しとやかで美しい世界(浄土)に遇いたい…そう願う時があります。ここが浄土の入り口です。ではどうすれば浄土とチャンネルが合うのでしょう…つまりはそこで、「南無阿弥陀仏」と、私たちの側がが浄土に周波数を合わせなければ、平素の人間の乱れた生きざまでは無理なのです(日ごろの心にては往生かなうべからず by 親鸞聖人)。
浄土の側はそんな不安定な私たちのことを、ずっと「待ってくださっている」のです。
(翫湖堂・2018年7月号所収・web用に再編集)