私たちはどこかで「自分だってこれだけ努力したんだから…」と自分のことを褒めたくなる気持ちを持っています。それは、生きていく上ではとても大事なことです。しかし、阿弥陀様を前にしたとき、その自分を立てたい気持ちが邪魔になる、ということもあるのです。曇りは阿弥陀様の側にあるのではなく、私の側にあるのです。
今回は、浄土和讃の36です。
「真土の讃嘆」、総讃の3首目にあたる御和讃です。次回からは別讃と呼ばれる箇所に入ります。
神力とは神様をさすのではありません。人智を超えた力を指し、続く言葉に「本願」とありますことからも、「阿弥陀様の不思議の力」という意味と受け取れます。
思えば阿弥陀様の前身・法蔵菩薩は、五劫という時間単位の、とてつもなく長い修行を終えられました。よって菩薩からすぐに仏になれるにもかかわらず、菩薩の姿でお待ちくださっています。そして、私たちが口に念仏を称えた瞬間、阿弥陀仏となって私たちをお救いくださるというのですから、これは不思議の力としか言いようがありません。
その願いは日ごろ、真実を見ることができない私たちに常に届いており、そのお力によってのみ、我々は真実に触れることができるのです。親鸞聖人は「慈悲(誰も わけへだてすることがなく」「方便(真実に向かわしめる はたらき)」不思議であると結ばれます。
それら不思議のはたらきは4つの言葉に分けて讃め称えています。
「満足」・「明了」・「堅固」・「究竟」です。
「満足」とはこれで充分、欠けることがない、ということです。阿弥陀さまの救いは私たちに何かオプションの修行のように、追加する行為を要求しません。全ては法蔵菩薩がすでに終えてくださっています。
「明了」とは誰にでもわかる、ということです。たしかに、手を胸の前に合わせて「南無阿弥陀仏」と名を呼ぶだけなのです。これ以上明確でわかりやすいことはありません。
「堅固」とは誰に奪われることもないということです。南無阿弥陀仏は称えることが大切ですが、「念仏」と申すように称えることのできない場合、念ずるだけでもよいのです。私が口に称えることも、心に念ずることも、他人から盗むことも奪うこともできません。
「究竟」とは法蔵菩薩が本願を“成し遂げられた”ということです。これまでの歴史において、親鸞聖人はもちろんのこと、聖人以前も、そして私たちに届くまでも悠久の歴史の中で、「南無阿弥陀仏」は常に成し遂げられてきました。
かりにもし誰かが「念仏なんかするものか」と思っていたとしても、その人はすでに「念仏」という形で南無阿弥陀仏を知ってしまっているということで、厳密にはすでに本願は成就しているともいえます。触れるだけで成就している…まことに、はかりしれない本願(真無量)なわけです。
ただ一点、そのことを納得できない・あるいはどうにかして意味を理解したいという「私たちの側の問題」は残ります。それこそが浄土真宗における「聴聞・聞法こそが大切」と言われるゆえんです。
(翫湖堂・2018年4月号所収・web用に再編集)