「真実」とは私たちには触れ得ない世界なのです。真実に触れられると思っていること自体が人間の傲慢であり、かつ、人間自身が自らを狭めているともいえます。逆に、真実に触れられないという謙虚さこそが、人間を成長させるともいえましょう。
私たちがどれだけ努力しても触れられるものはせいぜい「事実(主観を抜きにしたありのままの世界)」です。平素は「現実(主観で見た世界)」しか見ていませんから。
昔のアナウンサーは「事実関係を明らかにしてほしい」とよく言いました。今は軽々しく「真実を明らかにしてほしい」なんて言いますね。哲学的素養がいかに低下しているかを感じます。
今回は、浄土和讃の35です。
「真土の讃嘆」「総讃」の2首目になります。真土はお浄土のことで、つまり「お浄土の相を親鸞聖人が讃め称えている御和讃」です。
さて、「自利」とは自らを律して仏の救いの高みに高めようとすることです。「利他」とは、自らのことはさておきながら、純粋に他の人のことを救おうと願い、行動することです。そしてこの両方が円満成就することが真実のお浄土の救いであります。
しかしこれ、私たちにはなかなか厳しい道のりです。なぜなら人間には「真実が見えない」からです。じつは、私たちに見えるのは「現実」だけです。「事実」すら、よく見えていないのです。
たとえば雨が降るとします。これは純粋に気象現象です。これが事実です。
でも私たちは自分の都合で見ますよね。「雨が降って困る」ひと、「雨が降って喜ぶ」ひと、中には「雨が降ったことに何か意味合い(天罰・天の恵み)を持たせようとする」ひと…単なる気象現象ひとつをとっても目前の現実しか見えていないのが私たち人間なのです。
そんな人間にとって、純粋な真実の世界は「こころで思い描くこともできず、ことばであらわすこともできない(こころもことばも絶えたる)」世界です。
しかし法蔵菩薩(阿弥陀様の前身)は違います。南無阿弥陀仏と御名を呼ぶとき、法蔵菩薩は仏となってお浄土をひらき、全ての人々を救われます。しかも、ご自分のことはさておいて(利他)。同時にそのことが法蔵菩薩にとって仏の悟りに至る最大の喜び(自利)なのです。
「南無阿弥陀仏」のひと声は、瞬時に法蔵菩薩の自利利他を円満しまするのです。しかしそれと同時に、称える側の人間の、自分勝手な視点に染まることの決してない、どこまでも純粋な行ともなるのです。
このダイナミックな構造、伝わりますでしょうか。
かつて大谷大学の小野蓮明先生が「如来と衆生との因果同時的絶対媒介性を貫く論理は否定の論理である」(『願と信』 p306 ※注)と仰いました。言葉は難しいですが、味わい深い表現です。
つまり、阿弥陀如来はみなさんの南無阿弥陀仏のひと声がなければ仏となれず、みなさんは南無阿弥陀仏に出遇わなければ真実に触れられない。お互いがなければお互いを成就できない(否定の論理)ことを教えてくださっています。
いや、そもそも絶対的な存在であるはずの如来が、相対的に右往左往している衆生と接点を持つ、ということが矛盾していることにもなるわけですから。
絶対的存在である仏と、いつも相対的に迷う衆生が「互いに支えあう救済」なんて、世界宗教、どこをさがしても見当たりません。だから親鸞聖人は「歸命方便は巧みなるお荘厳です」「全く不可思議にして尊いこと」と、最大の賛辞をおくられるのでした。
(翫湖堂・2017年10月号所収・web用に再編集)
※注…『願と信』より…「如来と衆生とが相対し、相互に限定し合い、逆に相互に自らの根拠を相手に有つということが絶対媒介ということである。もともと絶対と相対、如来と衆生が相対するというとき、絶対に対するということが相対自身の自己否定ということであると同時に、絶対が相対に対するということも、絶対が自己の根拠を相対にもつという意味において絶対自身の自己否定を意味している。絶対は相対を絶するものでありながら相対に対することなくしては絶対もあり得ないという矛盾を持っている。絶対が相対に相対するということそのことが自己矛盾であり、したがって絶対自身の自己否定を意味している。衆生なくして仏はなく、仏なくして衆生はないと言われるとき、それは互に因果同時的に絶対媒介的に相対するということであって、如来が衆生に対するということが如来自身の否定を意味している。如来も自らの根拠を衆生に有つのである。」