阿難にとっては何気なく発した一言だったのですが、お釈迦様にとっては感動の出会いだったのでしょう。
毎日出会っていながら、たくさんの言葉を暗記しておりながら、真実に出会えない阿難を、お釈迦さまはずっと気にかけておられたに違いありません。
今回は、浄土和讃の50です。
前回、阿難と釈尊の間に起きた大切な出来事を説明してきました。今回の御和讃もまた、さらに重ねてそのシーンを述べられます。
和讃前半は、前回までのシーンと重なります。「阿難がお釈迦様の覚りの光を感じて問いを立てた」のでしたね。
お釈迦さまはここで阿難の問いのことを「如是之義(如是の義)」と意味づけられます。「いいかね、いいかね、阿難よ、君は今素晴らしい問いを起こしたんだよ。私のわずかな覚りの光を観察して、“かくのごとき現象のもつ意味(如是の義)”をよくぞ問うてくれたね(取意)」と。この言葉は仏説無量寿経の異訳、「無量寿如来会」の言葉です。
さて、〝如是〟はそもそも「かくのごとし」という意味で、お経の出だしにもよく使われます。阿難はお釈迦様の覚りの輝きを目にして「見たまま・かくのごとし」と自信を持って答えました。「誰かに言え」と言われたわけではありません。なお〝之義〟とは「その意味」ということです。
これはとても大切なことです。なぜなら、平素私たちの学習や議論では、常に「誰かがこういっていた」が幅を効かせます。他にも「テレビでは」「ネットでは」と、自分以外のものを根拠にしています。でもそれは本当に「自立した、主体性のある生き方」ではありませんね。AIと変わらないじゃないですか。AIは賢いようにみえて「どこかに書いてある二次的情報」を高速で・うまく処理しているだけです。主体性がないのです。だから時折、ハルシネーション(AIが思い込みによってデタラメを言うこと)が起きます。
他者の意見に自分が振り回される、とは、自分以外の何か(外物)をアテにして振り回され、自分自身をを見失っていることです。 よく間違った意味で使われる「他力」がそれに近いですね。あの他力の文脈は「other power」にすぎません。正しい仏教の「他力」は仏が衆生を見つめる力なので、本当の願いです。だから他力本願と言うのですが…まあこの話は置いておきましょう。
私たちの根本的な苦しみは、自分自身で考えたりせず、無自覚に他の思考・他のものに寄りすがったり、利用したり、おもねったり…あるいはいつしかその思考が自分のものだと勘違いして振り回されている姿勢(エコーチェンバーがそれに近いですね)にあります。それら思考は自分のものじゃありませんから、「アテが外れる」と言うことが起きます。そうして人の苦しみが起きます。
だから本当に主体的な、自立した生き方とは「外物に惑わされない自分自身を見いだす」ことにあります。それが仏教が存在する目的であり、「如是・私はかくのごく(聞き・考えた)」という宣言に象徴されるのです。
そもそも、お釈迦様が世に出られて、私たちを救いたいとされた本当のお心(出世の本意)は「どうか一人ひとりが本当の意味で自立して生きてほしい」にあります。
こうして仏説無量寿経の壮大な物語は始まります。
(翫湖堂・2022年3月号所収・web用に再編集)