「変成男子」の願は、当時最も救いから遠かった女性たちへ向けられた、阿弥陀様の深い「悲(カルナー)」の現れです。
現代の生きづらさを抱える私たちをも、その差別なき慈愛の光が温かく包み込んでいます。
今回は、浄土和讃の58です。
このご和讃、弥陀の大悲、仏智の不思議は申すまでもありません。しかし「変成男子」・「女人成仏」とは、どういうことでしょう。
これは『仏説無量寿経』の第35願をもとにしたご和讃です。そこでは、女性が念仏を喜び人生を送るならば、死後は必ず男性の身に変わり、仏となる。もしそうでなければ、私は仏にならない――そう誓われています。
現代の感覚からすれば、なぜ女性を男性の身に変える必要があるのか、疑問に思われるでしょう。
感覚の鋭い方はお気づきかもしれません。これは、仏典に今も残る、性の違いを前提とした表現とも受け取れます。ただし、この言葉が生まれた時代背景を抜きにこの表現を理解することはできません。
宗祖が生きられた鎌倉時代、「救い」は自力で修行を成し得る者のものでした。修行が及ばない人々は貴族も民衆も、布施や聴聞をするほかなかったのですが、その機会とて、社会的に男性が圧倒的に有利です。浄土真宗では聞かない「女人禁制」という言葉が今も残るように、当時の女性は、教えそのもの・念仏そのものに出会う機縁が限られていたのです。
その中にあって、「ただ念仏一つで救われる」と、お経には明言されています。この事実に、宗祖は深くうなずかれました。親鸞聖人がこの願を和讃に謳われたのは、阿弥陀さまの救いが、当時もっとも閉ざされていた人々にまで届くことを讃えるためだったのでしょう。
大悲の「悲」は悲しみという文字です。この原語karuṇā(カルナー)には、生きとし生けるものの苦しみに寄り添い、苦しみを取り除いてあげたい(抜苦与楽)という意味があります。また一方で、カルナーには「うめき声」という意味もあると聞きました。どれほど寄り添っても届かない、私たちの世界のありように、如来が共に悲しみ、うめいておられるようにも受け取れます。
この問題は、決して遠い昔の話ではありません。たとえば地方において法事の席で、女性が台所に下がり、お茶や食事の用意にあたる。そのあいだ、お経や法話に触れる機会を持たないという光景は、今も身近に見られます。
かつて、地元の座談会で「お念仏は男性がするものだと思っていた」と語られた女性がおられました。この言葉に、聞法の機縁が無言のうちに失われてきた現実を思わされたことを思い出します。当然、阿弥陀さまの願いには、男女の別などあろうはずがありません。
和讃の表現には、時折、現代の感覚にそぐわない部分があります。しかし、阿弥陀さまの本願は、男女老少の別なく、念仏を喜ぶすべての人に向けられています。
今なお、女性の生きづらさが語られる社会にあって、このご和讃が、私たち自身のあり方を静かに問い返す縁となれば幸いです。
(翫湖堂・2025年5月号所収・web用に再編集)