自分の都合で握りしめた願いや期待を手放したとき、初めて届く光があります。
真実信心は掴み取るものではなく、向こうから与えられるもの。握りしめた拳をひらき、空を見上げた先に広がる、静かで温かな救いの世界です。
今回は、浄土和讃の57です。
このご和讃で親鸞聖人は、『真実の信心を得た人は、必ず浄土に生まれる仲間(定聚)に数えられる。そして、その信心は揺るがない(不退)。だから煩悩を超えた素晴らしい浄土(滅土)へと導かれる』と言われます。
短く言えば「真実の信心は揺るがないから、必ず阿弥陀さまが浄土に迎えとってくださる。その仲間がいますよ」という意味です。
さて、では私たちの思う「信心」とはどうでしょう。自己都合でコロコロ変わってはいませんか。たとえば、願い事は神社、元気が欲しい時はパワースポットにお守り。未来は星占い、タロットカード。オラクルカードもありますね。さらに露骨なのは、期待どおりの結果が得られなかった時。「あれは効き目がない」とか言いませんか。それは信心じゃなく「都合の良い信頼」にすぎないでしょう。つまり、揺らぎまくりです。真実じゃない、ということですね。
信仰ですらそうなのですから、人間関係なんてもっと悲惨ですね。「あいつはダメ、こいつはキライ、やつは許せん」なんて、まるで自分が世界の中心であるかのように都合よく振る舞っています。自分中心の心で生きている限り、互いに認め合う『仏さまの連なる仲間(聚)』には、なれそうにありません。
脚本家の山田太一は、
「いま多くの日本人が何より目を向けるべきは、人間の『生きるかなしさ』であると思っている。人間のはかなさ、無力を知ることだという気がしている。
……私たちは少し、この世界にも、他人にも、自分にも期待しすぎていないだろうか?
本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要さない。そのように人間は、かなしい存在なのであり、せめてそのことを忘れずにいたいと思う。」(『生きる悲しみ』)
と述べています。
日本には「かなしみの哲学」があります。童謡や、物語の背景に流れる、ほのかに感じるかなしさです。その精神は、自分には世界を思い通りにする力などないという謙虚さを呼び覚まします。そして、あれもこれもと欲望のままに手を広げ、役に立つものだけを都合よくつかみ取ろうとする人間を、思いとどまらせる力を持ちます。
仏教は「つかむこと」より「手ばなすこと」の大切さを説きます。そこに信心が「与えられる」のだと。「真実の信心」を正しく表現するならば、自分でつかみ取ったり、奪い取ったりするものではなく、如来より与えられるものです。
与えられる故に、揺らぐことがないのです。これは、自分の「信じる」の向きが変わる話です。一瞬やそこらでわかることではありません。生涯の宿題でもある、深い話なのです。
(翫湖堂・2025年5月号所収・web用に再編集)