親鸞聖人の時代、宮と商は(本文の説明でいうとドとレ)一緒に鳴らすと不協和音でしかなかった、という認識です。
でもジャズのテンションノートだとドとレはC9(Cをルートとした場合)ですんで、不協和音も時と場所が変わると「生きる」んだなぁ・面白いなぁ。と思ってます。
今回は、浄土和讃の39です。
「真土の讃嘆」、「別讃」の③です。前回に続き、お浄土がどれほどよいところかを謳いあげてくださる御和讃です。
浄土の清らかな風については仏説阿弥陀経に説かれます。そこには「微風吹動 諸寶行樹 及寶羅網 出微妙音(お浄土では微風が吹いて諸々の宝の行樹や宝の羅網を吹き動かし、妙なる音が出ている・取意)」とあります。
これがこの和讃の大もとと申してもよいでしょう。お経ではさらに続けて「その音を聞くものは、自然にお念仏し、仏法を感得し、共なる存在に手を合わせたいと思うようになる(取意)」とあります。音による平和の世界をあらわしているわけですね。
さて、その音についてこの御和讃では詳細な説明を加えています。
それは「いつつの音聲」という表現です。
音楽的な話ですが、民族音楽で使う音は基本的に5音階です。これをペンタトニックと言い、他の音は使いません。
たとえば日本の代表的な5音階は「ド・レ・ミ・ソ・ラ」(メジャー・長調)です。ほかに「ド・レ・ミ♭・ソ・ラ♭」(マイナー・短調)もあります。沖縄民謡なら「ド・ミ・ファ・ソ・シ」ですね。ちょっとペンタトニックから離れますので余談ですが、アラビア音階は一音多くて「ド・レ♭・ミ・ファ・ソ・ラ♭・シ」です。(このページの【参考資料】を確認ください)。
さらに余談・この音だけに限定して指を置き、ピアノでデタラメ弾いてみても、即興でそれっぽくなり、面白いですよ。
さて、これらの音の関係性(音と音の幅)は調(スタートするキー)が変わっても同じです。それを表現するのに、日本の場合は古くから「宮・商・角・徴・羽(きゅう・しょう・かく・ち・う)」というルールを設けました。この「宮・商」が今日の御和讃にある音名の表現であるわけです。
和讃のこの言葉をドの調性(Cmaj・ハ長調)を基準に当てはめると、「宮はド」、「商はレ」「角はミ」「徴はソ」「羽はラ」とできるでしょうか(厳密には西洋の平均律と東洋の音律が異なりますのでピッタリとはいきませんが)。
そして、宮と商、つまりこの場合のドとレは一緒に鳴らすと濁った音になり、ユニゾン(原則的に同じ音階を奏でる演奏手法のこと)が主体となる古来の和の音階では基本的に調和しません。
ここで申したいのは、たとえ人間の感覚では隣同士で濁った音と聞こえても、お浄土の世界ではさまざまな音が同時に鳴っても消し合わない、否定しないということです。それどころか心地よい音と感じて仏法僧の三宝に自然と手が合わさるというのです。
【取意】お浄土では清らかな風が宝で満たされた木々を吹き抜け、その時に宮・商・角・徴・羽の音楽上大切な五つの音がすべて鳴り響く。隣同士の音であっても打ち消し合うことがなく、清浄でかぐわしい自然な響きを奏でるという。この浄土の徳に手を合わせましょう。
さて、ひるがえって、いま、私たちの住まう娑婆はいかがでしょう。大国が覇権を争い、隣同士の国がいがみ合う。お互いがお互いを否定しあうばかりの日々はますます混迷を深めているように思います。
親鸞聖人が浄土和讃で清らかな浄土の様子を繰り返し説かれるのは、私たちが日頃世間の雑音の中に置かれて、何が正しいのか見失ってしまいがちだからです。音楽的な理屈ではなく、どんな不協和音も和音に変えなしてしまう、というお浄土の不思議なはたらきと徳を思って、手を合わせたいものです。
ただ、西洋の音声学上では、〝テンションノート〟といって、あえて隣同士の音を効果的に使用することもあります。ジャズで多用される(セブンス・ナインス・イレブンスとかディミニッシュと呼ばれるものですね…これ以上はやめておきます)。だからと言ってジャズがお浄土の音楽、って単純な話じゃありませんよw
同様に、アフリカ音楽ではカリンバという親指で演奏する楽器にわざとアルミ缶の部品をつけてノイズ(雑音)を発生させる、という音響的装飾があります。これも文化の違いに過ぎませんので、浄土表現と絡める必要はありません。別面、音楽の世界も各国の文化の違いと相まって、奥深く、面白いものですね。
(翫湖堂・2019年1月号所収・web用に再編集)