「目の前にいる人をただの人とは思うなよ」という仏語があります。でも私たちは自分の都合とか思いが先にたつから、どうしても目の前の人をどこかで評価したり、断罪したりして生きています。そこに世界の隔たりがうまれているのかもしれませんね。
今回は、浄土和讃の41です。
お浄土の素晴らしさを謳い上げる御和讃はまだまだ続きます。
今回も「浄土の宝蓮華」を表します。おもしろいことに、出だしが前回と全く同じです。親鸞聖人お気に入りのフレーズだったのかもしれませんね。
前回も申し上げましたが、お浄土には蓮の華が咲き満ちており、その一つ一つの華は三十六百千億の光を放っているといいました。
さらに今回は「その三十六百千億の光は仏さまなのだ」と掘り下げます。仏身は仏さまの姿、光は三十六百千億の光、それが「等しい」というのですから、そういう意味に受け止められるかとおもいます。
ただどうも非常に想像しにくい、現実離れした世界を表現していますね。しかしそこがこの御和讃の大切なところです。
私たちがふだん仏教の話をきくとき、どのようにきいているかというと、「自分の人生に参考になる話かどうか」というききかたです。つまり、カルチャーセンター的な学びとでもいいましょうか。「自分のわかる範囲」できこうとするわけです。厳しい表現になりますが、仏法の話はそういうききかたでは「一生わかりません」。それは「私の〝わかる〟世界」を一歩も出ていないからです。
私たちの悲しい習性で「我、信ず」と、必ず「我」を入れます。これを「念我」といいます。絶対にそこから抜け出そうとしないのです。「私という牢獄」を誰しもが持っているわけです。そこを突き抜けられるかどうか。そこが大切なのです。「なんじゃ、そら。わけがわからん、そんな世界あるもんか」と思った人はしっかり「念我」中です。なぜなら今まさに、親鸞聖人という「念我の牢獄を飛び越えた人」の言葉に触れているのに、わからないからです。難しいですね。
表現を変えます。人生80年と言われる時代。あなたはこれまで何人の人に出遇ってきたでしょう。覚えている人、覚えていない人、ものすごい数の出遇いがあったはずです。その方々一人ひとりが、仏の眼差しから見れば、仏に照らされて生きておられるのです。その方々の様々な役割が、あの手この手で私にはたらきかけ、そうして仏法は私に届いてきていたのです。でもその時、もしかするとその「私」は念我の牢獄に入りこみ、「役に立つ奴か・そうでないか」と、自分という狭い窓から、外を覗き見ていたのではないででしょうか。
さてそんな毎日でもですよ。もしかするとそのうちに、聞法をとおして、ふと、そういう彼らが『三十六百千億の仏身』と、また『相好(おすがた)』として「金山」に見えるようになるかもしれません。
なぜなら「聞法はぐるりの拝める手をいただくこと」なのですから。
(翫湖堂・2019年7月号所収・web用に再編集)