素晴らしい世界を思い描くことは人間にだってできます。でも必ず「私にとって」という条件が入ってきます。その「私」もとっぱらうのが仏教の『自利・利他・円満』の世界観です。
今回は、浄土和讃の42です。
前回の続きです。「相好」に前回、「おすがた」と振らせていただきました。相好は、まさに「数知れない仏さまのおすがた」を意味します。
仏さまの数が三十六百千億と金の山(金山)のようだと表現されたのが前回ですが、その仏さまお一人お一人から、さらに百千の光が十方に放たれているというのです。
もうこれは、人間の想像力を超えてますね(笑)。
さて、これをどう受け止めるかですが、実際そういう光を表現しようとした歴史は数多くあります。例えば磨崖仏のように崖に大きな仏さまを刻んで、そこに日光が射すよう工夫してみたり。はたまた平等院のようにきんぴかのお寺を建ててみたり…。
でもそれは所詮、人間の想像の延長線上、想像の範囲内。ここで伝えようとしているのは「それを超えた」世界なのです。
人間の想像で言うならば、私たちは平素、「因果律」によって生きています。因より果へ、Aを行えばBとなる、方向の発想です。これはかなり西洋的で、仏教的な因果(因縁法)はそのように受け止めるものではないのですが、世間の多くがそう受け止めています。
たとえば、迷信、占い、自分のためだけに瞑想したり、善行・徳を積もうとする行為です。ダメだとは申しませんが、そこに救いはありません。なぜなら「自利・自分の利益」しかないからです。仏教が教えているのはそういうアタマの想像の範囲で落ち着く世界ではない、ということです。
因果律は一見だれもが理解しやすい世界観ですが、突き詰めれば必ず限界が来ます。なぜなら、この世に人間が全てをコントロールできる世界などないのですから。
…でもまあ、人間には難しい話です。因から果しか見られていないから、人間は日々自分の中で期待したり裏切られたり、果ては諦めたりの繰り返しです。
仏教的は人間のあるべき道を、「因縁法」で説きます。果に至った縁をいただき、因を考える相です。果より因へ。つまり〝逆方向〟なのです。因果を大きな目で俯瞰するには、「利他・他者のことを思う」が含まれなければ決して見えてこない世界です。ゆえに因縁と言います。得たいと思う果実よりも、すでに得ている・そこに至った因と縁を想うのです。私がこれまでどれほどいただいてきたか、そこに目を向けなさいと言うのです。
縁は自分では選んだり分けたりできず、またさらに、出遇ったことでしか気づけません。気づけなくても日々出遇い続けているものです。
御和讃で「つねに妙法ときひろめ」とあるのは、見えるものまた見えないもの(妙)も含め、全ての縁が絶えず私を生かしめ、働かしめているということ(法)に気付けよ、という呼びかけです。
もう一つ。縁には良いも悪いもありません。誰かが仕組んだわけでもありません。しかしその因縁法によって絶えず縁起(縁によって動く)しているのが人の生です。そのことに気づいてみれば、期待や裏切り、諦めに振り回されない穏やかな生き方(仏道)が見つかる。それが真(まこと)の教え、仏教というものなのです。
(翫湖堂・2020年1月号所収・web用に再編集)