浄土がこれでもか、これでもか、とまでに美しく荘厳されているという理由はなんでしょう。
それは、視線を浄土目線に変えてみればわかります。
今、私たちの住んでいる世界が、一見美しくに見えたとしても、そこには必ず「悲しみや苦しみをどこかで内包している」ことを伝えているのです。
今回は、浄土和讃の43です。
お浄土の相をほめたたえる和讃もいよいよあと残り2首となりました。
今回はお浄土を象徴する数字がいくつか出てきます。まず、七寶ですが、七種類の宝、すなわち「金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)」です。
お浄土ってすごい鉱脈があるんや!という話ではありません。美しく清浄な所を、これらの宝として表現しているのです。どんな財宝であったとしても等価交換が発生しなければ希少価値も生まれません。お浄土に存在する宝物は、人間が娑婆で欲望のために奪い合う希少鉱物ではなく、どこまでも浄土の世界を彩るのみ。美しい存在です。
また八功徳水がでてきます。八種類の功徳の水、ということですね。八功徳とは、①清浄潤沢、②無臭、③軽やか、④心地よく冷えて、⑤輭(軟やわ)らかで、⑥美しく、⑦調適(飲むときにちょうどよい)、⑧飲み終わりて患なし、という理想的な水のことです。
ということで、お浄土には目を和ませる美しい七つの宝の池に、八つの功徳の水が満たされている。
なんか…「それがどうした」と言われそうですね。
でもちょっと考えてみましょう。今、世界で私たちが安心して口にできるものってどれだけあるとお思いですか?
海を泳ぐ魚にはマイクロプラスチックなどの化学物質が、肉には特殊な飼料が、森林や土壌、そしてもっとも大切な水や空気ですら完全に清浄、と言い切れるものは実はもはや存在していないような状況です。
これらは現代の問題ですが、こうした穢れによらず、人の生命維持に安心ができない時代は昔からありました。お浄土が教えてくれているのは、「あってあたりまえの感覚」こそが、自らと自らの周辺をおろそかにし、汚してゆくおごり・たかぶりの心だということです。
現に昨今、新型ウイルスによって経済活動すら停滞する勢いです(執筆・2020年当時)。ただ私たちもウイルスも同じこの地球上に住まう生物です(ウイルスが生物か否かという議論はいまは置いておきます)。「人間だけが他の生き物や植物を自由に扱える覇者である」という構造や意識は、すでに破綻しているわけです。
生きとし生けるものを漏れることなく(無漏)、救うはたらきは、時に人間にとって都合の悪い選択を迫ることもあり得ます。阿弥陀様の「声なき・お声」に謙虚に耳を傾け、自己中心的な生き方を改めるように生きなさい、という呼びかけ(歸命せよ)が、そのまま、何物をも漏らさず救うという阿弥陀さまのねがいに沿う生き方だったのだ、と互いに気づきあいたいものですね。
(翫湖堂・2020年4月号所収・web用に再編集)