歎異抄に「まだ見たこともない浄土に行きたいとも思わない(取意)」と嘆く弟子の唯円に、親鸞聖人が優しく語りかけるシーンがあります。「それが煩悩を持ち歩いている、っていうことなんだよ(取意)」と。
今回は、浄土和讃の44です。
お浄土の相をほめたたえる和讃も、ここで一区切りとなります。
〝三塗〟は「三途の川」の三途に通じます。大谷派ではこのご和讃を、人が亡くなられた最初の七日め、「初七日」のお勤めに使います。だから一度は耳にされた事があるかもしれませんね。
そして三塗とは「火塗(かず)・刀塗(とうず)・血塗(けつず)」と言います。
第7回(翫湖堂81号)でも少し触れましたが、火塗は火を塗られるような苦しみの意味で、それは地獄道に通じます。孤独の苦しみとも言います。本当に孤独が辛いのははひとりぼっちの時ではありません。大勢が仲良くしているのに、自分だけつまはじきにされている時です。全身が宙に浮き、だれとも触れ合えない感覚は火にさらされるようではありませんか。
刀塗は刀で斬られるような苦しみです。それは餓鬼道に通じます。親子兄弟すら互いに認識できないほど錯乱し、食べ物(財産)を奪い合う世界です。おそらくは心の底でお互い仲良くしたいと思っているのに、その心に蓋をして、親族ですら利益を奪い合う、むさぼりの苦しみです。でも、
血塗は血を塗られるような苦しみです。それは畜生道です。隷属(れいぞく)とも言います。誰かの言いなりになって生きる、それだけじゃありません、誰かのせいにして生きているのも同じ。自分というあり方をを見失った・あるいは放棄した、諦めた生き方です。
…実はよく考えてみれば、誰もが大なり小なり心当たりのある話です。
一例をあげれば火塗はいじめや仲違いです。いじめられる人だけが火塗ではありません。実はいじめた人もただでは済みません。なぜならいじめるという心の歪みがすでに露呈しているということは、そのいじめには何らかの背景・苦しみがあったわけです。だから同様に火塗の苦しみです。
財産争いだけにとどまらず、なんでもかんでも人のせいにして自己中心的に貪りの道を生きるのも、つまりは刀塗。目の前の相手に強く言えず、忖度を繰り返し、自分自身を主張できずにただただ従う生活が血塗です。
…だめだとは言いませんし、その苦しみを努力して消せなんて言いません。
ただ、目を向けて欲しいのです。もっというならば「対象化」して欲しいのです。ああ、私はそこに立っていたのだな、と。なぜならそれらはみな、私たちが日頃「持ち歩いている」苦しみなのだから。だから対象として気づくことができたら、少なくとも「塗れ(まみれ)」の状態からは抜け出すことができます。それが解脱への一歩なのです。
親鸞聖人がここまで八首のご和讃で浄土のすがたを丁寧に描かれた理由は、
❶「浄土はこういう苦しみがいっさい存在しない・完成された世界」ということ、
❷そして「法蔵菩薩(阿弥陀様が阿弥陀仏とならずに、あなたを待っている姿)は、この苦しみを超える道は目の前に用意されているのだ」ということ、
を、伝えようとされたからです。
和讃では、三塗を持ち歩いてきた私たちの苦難がながく閉じ(終わりをつげ)、「(浄土では)但(ただ)、自然の心地よい音が響いているだけ」とあります。そして、「だから浄土のことを安楽と名付ける」と続きます。
無極尊の「無」は仏教では〝なみする(関わらない)〟あるいは〝極まりない(この上ない・比較対象を持たない)〟意味を持ちます。
ここでは浄土をご用意下さった阿弥陀様のこの上ない・最上の功徳を表します。日頃の心のままでは出会うことすら叶わない、阿弥陀仏の願いは、実は出会えるのだということすら忘れていた「この私」に向けられている・待っていてくださる。
…浄土をほめたたえるの御和讃の最後は、このように締めくくられているのです。
〝三塗の黒闇〟それは、死後の世界どころか、私たちが毎日見聞きしている生活の有りさまでした。暗闇の真っ只中を生きる私たちにとって、無条件で、間違いなく浄土の救いが用意されていることは、この上なき希望だとは思いませんか。
(翫湖堂・2020年7月号所収・web用に再編集)