仏教は呪術ではなく、人智を超えた「生きるちえ」です。その真実の教えに出遇うことは、三百年に一度咲く花を見るよりも稀有で尊い奇跡です。だからこそ、人間として生まれた今、深く学ぶべきだと説いています。
今回は、浄土和讃の52です。
前回まで阿難尊者が釈尊の「輝き」に出遇われたことをお話ししました。
真実の教(経典)・仏説無量寿経が説かれたきっかけは、釈尊の「覚り」の光に「覚っていないはずの」阿難が出会ったという、「稀なる」出来事があったのです。
さて仏教にはこの「稀」を表す言葉が多くあります。一例を挙げれば「盲亀浮木(もうきふぼく)」のたとえです。それは、南洋の大海に〝たまたま〟浮かんだ木に、〝たまたま〟開いた穴(うろ)があり、そこへ、目の見えない大亀が百年に一度の息継ぎのため、これまた〝たまたま〟浮上したら、なんと〝たまたま〟頭が浮木の穴にすぽっと入る・サイズもピッタリという仏教説話です。
このたとえ話は何を意味しているかと言いますと、まず「仏教の教えに出遇うことは大変稀なことである」ということです。大海原に浮かんだ木のうろのサイズが亀の頭と一緒とか、たまたま浮かんだ木が目の見えない亀が100年に1度の息継ぎで上がってくるタイミングと向きまでピッタリ合うなんて、どんな確率でしょうね。
そもそも現代、「仏教が何か」ということを説明できる人はあまりいません。なぜなら瞑想的・呪術的・修行的な側面ばかり強調されるからです。
子どものころよく言われました「修行したら霊を祓えるんやろ?」って。これは呪術であり、仏教ではありません。
では本当の仏教とは何か。「生きるためのちえ」です。だから浄土真宗では呪術的な水子供養も祈祷も行わず、また、根拠のない物忌みもいたしません。「釈尊が本当に伝えたかった〝生きるちえに真摯に向き合い・学ぶ〟」ためです。
さらにもう一つ。それは「自然法爾(じねんほうに)」ということです。じねん(自然)とはしぜん(自然)とはすこし概念が違います。「おのずから・しからしむ」といいます。
それは簡単にいうと「誰か一人の人間が企んだ・企てた、ということを認めない」ということ。今でいう「陰謀論」ですね。小さなコミュニティならばそれは多少あることかもしれません。しかしそもそも、「たかが人間」の企てることなど、十年単位、百年単位という宗教的時間で見渡した時には「なきに等しい」と喝破します。〝世の中の全ては偶然にして必然〟と解くのです。それは時に残酷なまでに冷徹に。
ただ、それを理解している人は稀です。今回の「難値難見」や「霊瑞華」はそれを指します。『如来さまがこの世にお出ましになったその本意は・真実の側から「どうか生きるためのちえ・世の中の法則に目覚めてほしい」という本当の願い、すなわち『本願』に出あう世界を伝えることです。
しかし、目先の利益や、誰かのせいにして生きる人にとっては、値(あ)うことも難しく、見ることも難しいのです。だから呪術的・瞑想的先入観で仏教を浅く理解し、本当の深さに学ぼうとしません。つまり「せっかく人間として生まれたチャンスを棒にふる」という暗愚を犯しているのです。
だから仏教の教えに本当に出会える人とは、たとえば三百年に一度花を咲かせるという優曇鉢樹(うどんばつじゅ)の花=霊瑞華(れいずいけ)を見る」よりも稀で難しいのです(和讃取意)』と、言われます。
いま、阿難の体験を機縁として、釈尊は「真実の教え」を説き始められます。それは正しく遇えば、必ず誰もが目覚める教え・仏教という名の生きる哲学です。
(翫湖堂・2022年5月号所収・web用に再編集)