悠久の昔から見守り続ける阿弥陀の光。その光は、念仏を受け継いできた数えきれない先輩方を通して、いま、「私」のもとへ届いています。
時空を超えたつながりは、見えなくとも、今、この私に安心を届けてくれるのです。
今回は、浄土和讃の53です。
いよいよ真実の教、大無量壽経の中身に入っていきます。と、ここで見覚えのある御和讃ですね。これは第2回でご紹介した、
彌陀成仏のこのかたは
いまに十劫を経たまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり
とそっくりです。あの時の御和讃は、「阿彌陀さまが成仏されて、十劫という途方もない時間が過ぎましたが、そのお姿から放たれる光は今もなお、えらばず・きらわず・みすてずに世の中の暗い部分を照らし出してくださっています(取意)」という意味でした。
いっぽうで、今回の御和讃は少し視点が深まります。
「阿彌陀さまの成仏より十劫の時間が過ぎたとお経にはあります。けれど親鸞様は、阿弥陀さまはそれよりも遥か昔、永遠ともいえる過去(塵点久遠)からいらっしゃる仏さまだと味わっておられます。遠い遠い昔から、ずっと私を見守り続けてくださった、古くからの親友のような、懐かしく親しい仏さまである。(取意)」という意味です。
実は、この和讃の元となっている『大無量寿経』の物語には、阿彌陀さまが成仏される前に「五十三人の仏様が存在した(過去五十三仏)」という記述があります。
興味深いことに、別のお経(異訳)では、この五十三仏は過去だけでなく、未来に向けて現れる仏さまであるとも受け取れる書かれ方をしています。過去から現在、そして未来へ。仏さまの願いはずっとつながっているのです。
ここから何が見えてくるかと言いますと、過去より現在まで共通する私たちの姿です。 私たちはいつの時代も、未来がわからなくて不安に苦しんだり、占いにすがったりしがちです。しかし、「私まで願いのバトンが届いている」という視点で、過去から現在を見つめてみるとどうでしょう。
数えきれない先輩方が悩み、苦しみながらも選択してきてくださったおかげで、今の私がここにいる。その事実に気づいた時、「私がこれから歩む未来もまた、仏さまの願いの中にあるのだ」と、不安な未来が「開かれた未来」へと変わっていくのです。
思えばコロナウイルスの不安も、日常の不安も、根っこは同じ「先の見えなさ」です。 しかし、阿彌陀様が成仏されたということは、今の「私の口から確かに南無阿弥陀仏という声が出た」という事実につながっています。お念仏が出たその瞬間、「今、私は願いの中にいる」と定まります。今がはっきりすると、過去と未来が同時に「意味のあるもの」として開かれるのです。
私に先立って生きてくださった先輩方も、私たちと同じように悩み、苦悩された人間でした。しかし、今の私から見れば、仏に出遇うことを勧め、導いてくださった「諸仏(数多くの仏たち)」として仰ぐことができるのではないでしょうか。
だからこそ、念仏は「他人事」ではだめなのです。念仏はどこまでも「私」の救いの物語です。その「私一人がためであった」という自覚と喜びは、誰にも代わってもらうことのできない、かけがえのないものなのです。
(翫湖堂・2022年6月号所収・web用に再編集)