阿弥陀様の十二の光は、私たちの絡み合ってガチガチになった知識や執着心を、温かい光で包み込み、ほぐし、解き放ってくださいます。
今回は、浄土和讃の55です。
親鸞聖人が仏説無量寿経の深い意味を伝えようとされています。
無碍光仏というお名前が出てきましが、これは「阿弥陀如来の別名」です。以前申し上げたとおり、阿弥陀さまは「光の仏さま」です。光と言っても私たちの知る壁や屋根で「遮られる」ような光ではありません。
阿弥陀様の光は「無碍光」です。阿弥陀様の光は「無碍光」です。「碍(さまた)げられる」ことがない、誰にでも、どこにでも届く光です。
ほかにも十二の光の名前がありましたね。 復習すると、無量・無辺・無碍・無対・光炎王・清浄・歓喜・智慧・不断・難思・無稱・超日月光です。『正信偈』をご存知の方なら、そらんじることができるでしょう。今回の御和讃ではこのうち、「無碍」の光と、さらに「清浄」「歓喜」「智慧」の光が謳われているのです。
「清浄」は、どれほど邪な心や行いを持っていても、その光に会うものを全て清らかにしてくれます。
「歓喜」は、光に会うものを喜びで包み込んでくれます。
「智慧」は、少し付け加えさせてください。「仏の“智慧”」は「人の“知恵”」と対応しているからです。
まず「智」という字を見てみましょう。「知る(知)」の下に「日」と書きますね。これは、人間の言葉や知識だけでなく、そこに仏様の光(日)が差し込んでいる状態と味わうことができます。 私たち人間の「知」恵だけでは、どうしても自分勝手になりがちです。そこに常に仏の「智」、つまり光の智慧が照らされていないといけないことを教えてくれているようです。
また、「慧」の旧字にある「彗」は2本の箒(ほうき)を意味し、心の中を掃き清める様子を表します(彗星を別名「ほうきぼし」と呼びますね)。 いっぽうで、人間の知「恵」はもともと「惠」と表記します。ここには「糸車」という意味が込められています。これは、私たちが日頃、糸車のように知識をたぐり寄せ、自分自身の身に巻き付けている姿のようです。
知恵は正しく使えば文明の発展に役立ちますが、私たちはその知識を「鎧(よろい)」のように身に巻き付けて自分を守ったり、時にはそれを武器にして相手を「攻める」ほうに働かせがちです。 記憶に新しいコロナ禍でも、私たちは不安ゆえに、自分目線で安易に人を批判し、攻撃してしまう姿を露呈してしまいました。
ただ、これを単純に"愚かな姿"と切り捨てるつもりはありません。むしろ、「賢すぎる」のです。知恵や情報が多すぎて、かえって苦しみ、迷っているのです。
阿弥陀様の「智慧」の光は、そうした人間が集めた「知恵・知識」へのこだわりを、優しく照らし出します。
光に遇うとき、私たちは握りしめていた知識を「絶対のもの」ではないと知り、少しだけ横に置くことができるようになります。
そうして、和讃にあるとおり「不可思議に(人間の計算を超えて)」、私たちを含めた「十方諸有(生きとし生けるもの)」は、すでにその光の利益(救い)の中にあったのだと気づかせていただくのです。
阿弥陀様の光は、迷いの中にある私たちのありのままの姿を、今日も静かに照らしてくださっています。
(翫湖堂・2022年8月号所収・web用に再編集)