「至心・信楽・欲生」という三つの心が整い、口から「南無阿弥陀仏」と称える声となってあふれ出る。その時、私たちの声となってくださった念仏が、阿弥陀さまの大きな慈悲の御手に、丸ごと包み込まれていくのです。
今回は、浄土和讃の56です。
ここまでは、「仏説無量寿経」が説かれたその背景を細かく描写してきましたが、今回はいきなりその意味の「核心」部分です。
え、いきなり?と思われるかもしれませんね。でも浄土真宗の教えの核心は意外とシンプルで、端的にのべることができるのです。ただ、「人間が真実から離れすぎているため」、理解するには説明と時間が必要なのですが。
まずいきなり至心・信楽・欲生という言葉が出てきました。これは、法蔵菩薩(阿弥陀仏の前身)が、浄土をたてられる際に立てた誓い(誓願)に出てくる言葉です。
あらゆる仏の国土はそれぞれの仏の誓いによって方向性が決まり、かたちづくられます。法蔵菩薩が建てようとされた「浄土」もその仏国土の一つで、そのための根本の誓いがあります。法蔵菩薩の誓いの数は合計四十八ありまして「四十八願(しじゅうはちがん)」と言います。その中でも特に中心となる「第十八願(だいじゅうはちがん)」の中に、この至心・信楽・欲生が出てくるのです。
では“至心”は何かというと、簡単に申せば「心の底から・まっすぐな心で」、という意味です。そして“信楽”はそれを「信じること」、最後の“欲生”は「私自身が法蔵菩薩の浄土に生まれたいと願う」ことです。法蔵菩薩は、この三つの心を私たち(十方衆生)に『持ってほしい』と願い、誓いを建てて強く勧められました。意訳するならば、「生きとし生けるものが、心の底から私(法蔵菩薩)の徳を信じ、浄土に生まれたいと願う。この3つの心もちが整った姿で、私が仏になった時の名前(南無阿弥陀仏)を呼んでくれることの中に、そのすべてが収まっているんだよ」、それが至心・信楽・欲生の、「三信」と言います。
ただしかし、本当に「心の底から」と、いったい誰が判定できるのでしょう?同様に「信じる」も、本当の・本当に(しつこいようですが)、「浄土に生まれたいと願えているのか」ということも。この疑問を解く話は、とても哲学的思索が深くなります。核心は明確なのですが、その背景が深い、ということです。
そこで今はまず、少なくとも「第十八願」には、まずもってこの「至心・信楽・欲生」のこころもちで「私の名前(南無阿弥陀仏)を呼んでくれた時」、「どんな人でも必ず救う」とシンプルに書かれてあることをお伝えします。それが「真実報土の因」、真実の国に迎えとるということのそもそもの理由であるからです。
そしてこれが「念仏(阿弥陀さまの名前を呼ぶ)」という行為の根拠であり、浄土真宗の根幹です。
さてさて、そう言われてみて、ですよ。
「よし、それじゃ念仏しよっか」と思う人はどれほどいるでしょう?
実はここが、人が抱え続ける根本問題でもあります。
だから親鸞聖人も「不思議の誓願」と書かれます。つまり、人間が考え(思議)をこらしてもこの本当の願い(本願)である誓いの深い意味と願いの意図はわからないよ(だから念仏として名前を呼び、その願いに呼応するしか方法がないのだよ)ということです。
表現はシンプルなんですが、人間の計らいを超えている。だからこそ『不思議』なのです。
(翫湖堂・2022年10月号所収・web用に再編集)